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  まずは朝鮮語の音韻体系の分析から進めてゆく。
  朝鮮語という言語の概要と歴史に付いては後半で述べる。


1.現代・中世朝鮮語の母音体系

 ハングルの「母音字」と音韻論的な母音

  現代朝鮮語(韓国語)には音韻論的に八種類の母音があるが、それは韓国語を学ぶ際に真っ先に覚えさせられるハングルの10種類の母音字「ㅏ、ㅑ、ㅓ、ㅕ、ㅗ、ㅛ、ㅜ、ㅠ、ㅡ 、ㅣ」のことではない。

   注:これら10個が母音を表す記号であるが、そのままで用いられることはあまり無く、母音を論じる際には「ゼロ子音」を意味する「○」と組み合わせて「아、야、어、여、오、요、우、유、으、이」と表記することが多い。これらは厳密には「母音」ではなく「母音音節」なのであるが、ハングルには片仮名や数字と紛らわしいものも多いので、以下こちらの方を用いる。

ハングル10母音字の発音

   →がこれら母音字の発音であるが、聴いてお分かりのように、日本語の/ヤユヨ/に相当する「야여요유」は、音節頭に半母音が入っており、音声学的には母音とは呼べない。

  これらを除き、日本人の耳には/エ/に聞こえる/에/・/애/を加えたものが朝鮮語の音韻論的な八種類の母音である。
  分解すると「ㅔ 」は「ㅓ+ㅣ」、「ㅐ」は「ㅏ+ㅣ」の二重母音ということになるが、/オイ/・/アイ/の様に分割して発音されることはなく、一つの母音として扱われており、韓国語のワープロでも一つのキーが割り当てられている。

これら八つの母音の模範的な発音と唇型は以下の通りである。
ア イ
/아/[a] ≒/ア/ /이/[i]≒ /イ/
ウ ウエ
/우/[u]≒関西方言の/ウ/ /으/[ω]≒標準語の/ウ/
アイ オイ
/애/[ε]≒/エ/ /에/[e]≒/エ/
オオ オ
/어/[ɔ]≒乙類/オ/ /오/[o]≒甲類/オ/

  聴いての通り、日本語の/ウ/・/エ/・/オ/に相当する、或いはそれに近い母音が2つずつある。
  ただ、日本語の/エ/に当たる/에/と/애/は、半島南部(韓国)に於いては発音上の区別が曖昧になっているといわれるが、北部(北朝鮮)では今でも明確に発音し分ける。
日本語母音図 朝鮮語母音図
日本語母音図 朝鮮語母音図

 朝鮮語の/ㅗ/と/ㅓ/

  さて、問題の2つの/O/母音、/오/と/어/である。
オコソトノ
朝鮮語の//と//
  
  →は //と//を用いて、日本語のオ段音「オコソトノ ホモヨロ」を模倣した発音である。

  聞いての通り、//の方は日本語のオ段音の範囲にすっぽり収まり、違和感なくオ段音に聞こえるのに対し、//の方はオ段音の範囲から多少はみ出しており、オ段音と呼ぶには多少違和感があるかもしれない。
日朝のオ
日本語の/オ/と朝鮮語の/오/と/어/
   しかし、これはあくまで「模範的な発音」である。

  母音に許容範囲があるのは朝鮮語でも同じであり、/어/の模範的発音は↑のような発音だというだけであって、日本人が常に模範的な円唇の[o]を発音しているわけではないのと同じく、朝鮮語話者も日常会話に於いて常に↑のような模範的な/어/を発音しているわけではない。

  そして、日常会話に於ける朝鮮語の/어/は、日本人の耳には違和感なく/オ/に聞こえる。
 ↓は、朝鮮語の「오른」(右)と「어른」(大人)、「오리」(あひる)と「어리」(鳥かご)、「소리」(声)と「서리(霜)、「놓다」(置く)と「넣다」(入れる)という単語対を、それぞれ交互に二回ずつ発音したものである。
朝鮮甲類 朝鮮乙類
朝鮮語/오/ 朝鮮語/어/
   これらを目をつぶって聞き分けられる日本人がいるだろうか?
   しかし、朝鮮語話者はこの2つの母音を目をつぶっても聞き分けられるのである。
   こういう耳を持った者が↓の日本語/O/母音の条件異音を聞けば、「日本人もやはり2つの/O/母音を発音し分けている」と判断するに違いないと思うが、いかがであろうか?
異音A 異音B
日本語/O/甲類 日本語/O/乙類

中世朝鮮語母音体系
   問 題は、この「오」「어」という2つの/O/母音が7~8世紀の朝鮮語(百済語)にも有ったかどうかであるが、後述のように朝鮮語の歴史を確実に遡れるのは1443年制定の『訓民正音』までである。

中世朝鮮語
中世朝鮮語母音図

  『訓民正音』では「ㅏ、ㅓ、ㅗ、ㅜ、ㅡ 、ㅣ」の他にも「・」という母音字が建てられている。
  この/・/はIPAの[ʌ]のような発音だったと推定されており、近世になり第一音節で/아/、第二音節で/으/に吸収され消滅したと言われている。

   三省堂の『言語学大辞典』は、「中世朝鮮語の母音音素は7つ」としているが、それはこの「ㅏ、ㅓ、ㅗ、ㅜ、ㅡ 、ㅣ、・」の「7つの母音字」のことを指している。
  しかし、日本語の/エ/に当たる/에/と/애/が無かったわけではなく、『訓民正音』の用字例においても「체」(篩)と「채」(鞭)の様に意味弁別機能を果たしている。
  従って、中世朝鮮語の母音音素は/ㅏ、ㅓ、ㅗ、ㅜ、ㅡ 、ㅣ、・、ㅔ、ㅐ/の9つだったと言うことになる。(ただ筆者は、『訓民正音』には陰陽五行説に依拠した規範論的な偏向が見られることから、/・/という母音の存在そのものを疑っている)
  いずれにせよ、中世から/오/・/어/の区別が存在したことは間違いない。

2.『東國正韻』で見たオ段甲乙音漢字の発音

  1443年に表音文字である『訓民正音』(ハングル)が発明され、そのハングルを用いて漢字の発音を表記した最古の韻書が1447年に刊行された『東國正韻』である。
  この『訓民正音』と『東國正韻』は刊行時期を見れば解るように、李朝の世宗大王がハングル制定の為に「集賢殿」に集めた同じ学者グループによって編纂されたものである。
  これより前に朝鮮で個々の漢字がどのように発音されていたかは、中国や日本語に於ける発音、朝鮮固有語の発音などと比較しながら「漢字音を以て漢字音を推定する」以外になく、正確なことは誰にも解らない。

  さてこの『東國正韻』によって、上代オ段甲乙音に充当されている漢字の朝鮮に於ける発音を調べたのが以下の表である。
  (なお、この時代のハングル表記法は現代と異なっており、この表はそれを現代表記に改めたものである。中世と現代の表記法の違いについて詳しいことは本書第七章参照)

  見てお分かりのように、甲類漢字にはきれいに円唇の「ㅗ」または「ㅛ」母音が現れ(少数の例外も「ㅜ」という円唇母音)、乙類の「コ」「ヨ」「ロ」の乙類にはきれい非円唇の「ㅓ」「ㅕ」が現れ、他の乙類もみな非円唇の母音が現れる。   

 「甲類がㅗㅛなのは解るが、ソ・ト・ノの乙類にはが全くㅓㅕが現れていないじゃないか!」というかも知れないが、実は「ト乙類」に相当する「더」、「ノ乙類」に相当する「너」、「モ乙類」に相当する「머」と発音する漢字は現代にも『東國正韻』にもなく、「ソ乙類」に相当する「서」と発音する漢字は現代にはあるが『東國正韻』には一つも無いのである。
   従って、百済人の書記官達はソ・ト・ノの乙類にぴったりはまる漢字が無いので、仕方なくそれに近い発音非円唇母音の漢字で間に合わせたということであろう。

  「モ乙類」に相当する漢字も無いが、これは文字がないから表記できなかったというよりも、日本語の側の甲乙の差が小さく、他の非円唇母音漢字まで用いて書き分ける必要を感じなかったのだろう。

  「ヲ」と「オ」が/O/という母音音節の甲乙であるという説も、「ヲ」には「ㅗ 」及び「ㅝ」などの円唇母音、「オ」には「ㅓ」及び他の乙類と同様の非円唇母音が現れることからも確かめられる
  ただ「オ」の表記に頻用され、片仮名の「オ」の元字である「於」には、現代でも『東國正韻』でも 「오」「어」両方の発音が認められており、もしかすると「ヲ」か「オ」かで迷った時の便利字として用いられていたのかもしれない。

コゴソゾ

「ソ乙類」に相当する「서」と発音する漢字は『東國正韻』には一つもない(現代漢韓辞典にはたくさんある)
トドノモ
「ト乙類」に相当する「더」、「ノ乙類」に相当する「너」、「モ乙類」に相当する「머」と発音する漢字は、現代漢韓辞典にも『東国正韻』にもない。

ヨロホヲ
 

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3.現代朝鮮漢字音で読んだ万葉集

   さて、このように漢字やハングルなどを示し、いくら理屈で説明しても、「現代・中世の朝鮮語はそうであったかもしれないが、現代・中世朝鮮語の祖は新羅語だと言われており、7~8世紀の百済語がそうであったということ証明にはならない」とヘリクツを言う人間が必ずいる。

   そこで、本書とは順序を変え、第八章を先取りする形で、『記紀万葉』を書いていたのは朝鮮語話者だったということが実感としてわかる、現代中国各地方言漢字音、及び現代朝鮮漢字音による万葉集の発音実験をお目にかけよう。(詳細は第八章参照)


万葉比較 韓国万葉集
朝鮮語と中国各地方言音で
読んだ万葉集
現代朝鮮漢字音で
読んだ万葉集

上は万葉集巻五の大伴旅人の歌(通番793)
   「余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
        伊与余麻須麻須 加奈之可利家理」
   「ヨノナカハ ムナシキモノト シルトキシ 
        イヨヨマスマス カナシカリケリ」
   「世の中は 空しきものと 知る時し
        いよよます 悲しかりけり」

と解されている歌を、現代中国各地の方言漢字音と、「現代漢韓辞典」に載っている現代朝鮮(韓国)漢字音で発音したもの、右はこれに加え、他の4首を現代朝鮮漢字音で発音したものである。
   (第八章では、朝鮮語と中国18カ所の方言漢字音で、万葉集の歌10首ずつを比較している)
   どんなにヘリクツをこねるのが好きな者でも、これを聞いて朝鮮語(韓国語)で発音したものが一番日本語に近く聞こえるということを否定した者はいない。

  さて、このように「現代漢韓辞典」に載っている漢字音をそのまま用いてもかなり日本語に近く聞こえるが、これまでの分析で得られた知見で補正するだけで、朝鮮語での発音はもっと日本語に近づけられる。

  「余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理」の歌を例にとろう。

  日本人が違和感を覚えるのは「ヨノナカハ」が「ヨヌンナカパ」、「ムナシキモノト」が「ムナシキモネトゥン」のように聞こえることであるが、 前述のように、「ト乙類」に相当する「더」、「ノ乙類」に相当する「너」、「モ乙類」に相当する「머」と発音する漢字は、現代漢韓辞典にも中世の『東国正韻』にも「ない」のである。
  当然それは上代にもなかったはずで、百済人書記官達の耳には「너」「더」「머」と聞こえていたが、それにぴったり当てはまる漢字がなく、やむなく「ノ乙類」を「能(능)」「乃(내)」、「ト乙類」を「等(등)」の非円唇母音の漢字で間に合わせるしかなかったのである。
   従って「能」「乃」を「너」に、「等」を「더」に置き換えて発音させれば、もっと日本語に近づく。     

万葉補正
補正した朝鮮語での発音

  なお、「ノナカ」「イヨヨマスマス」の「余」「与」は乙類、朝鮮語では「여」である。日本の韓国語教科書、韓国の日本語教科書には、日本語の「ヨ」は円唇の「요」だと書かれているが、この音は日本人の耳には違和感なく「ヨ」に聞こえるであろう。

  また日本人は「シルトキシ」の「子」が「シルトキチャ」のように聞こえることに違和感を覚える。
  しかし、この「志流等伎子」は本当に「シルトキシ」なのであろうか?
  ↑の中国各地方言を聞いてみればわかるが、「子」の字の発音は皆/ツ/・/ヅ/といった発音であり、「シ」のように発音する方言はない。
  従って、「子」の字の「シ」という発音は日本で後代に発生した慣用的発音であり、この一節は「シルトキ」ではなかったかと考えられる。(「シ」だったなら、この歌の中にも用いられている「之」で間に合う)
  なぜなら、朝鮮語には日本語の/ツ/[tsu]・/ヅ(ズ)/[zu]に相当する音節はなく、従って/ツ/と発音する漢字もないのである。仕方なく百済人書記官達はそれに類似した「子」/チャ/で間に合わせのだと考えられる。
   もしそうなら「ツ」に「子」/チャ/の字が当てられているかは朝鮮語で説明が付く。
月曜日
朝鮮語話者の
「月曜日」「シャツ」「鈴木さん」

  (朝鮮語に/ツ/・/ヅ(ズ)/という音節がないことは、朝鮮語話者が日本語を学ぶ際の大きなネックの一つとなっており、初学者は「月」を/チュキ/、「月曜日」を/ケスヨウビ/、「シャツ」を/シャス/あるいは/シャチュ/、「鈴木」を/スジュキ/のようにしか発音できず、発音矯正に苦労する)

   また、現代のハングル(訓民正音)の表記法は、制定当時からはかなり簡略化され変化しており、ハングル表記法の変化に伴う朝鮮漢字音の変化が相当ある。
   例えば、後述するように、制定当時にはあった「○」(ゼロ子音)と「」([ŋ]音)の表記上の区別がなくなったため、本来はガ行鼻濁音[ŋo]のような発音であったはずの「呉」「五」「吾」などは、現代ではゼロ子音の[o]と発音されるようになっている。

  『記紀万葉』の借音仮名に用いられている漢字を、『東國正韻』などに基づいて丹念に補正して音価を推定し、その他の朝鮮語の音韻体系に関する知識で補ってゆけば、日本語・朝鮮語共に音韻体系は1300年間殆ど変化していないことが確かめられるであろう。

4.「上代頭韻法則」は朝鮮語の法則

  「上代特殊仮名遣い」が朝鮮語を母語とする百済人書記官達の用字法であったことは、 上代借音仮名全般を通じて言われる「上代頭韻法則」でも傍証される。

①母音は語頭にしか立たない
②濁音は語頭に立たない
③ラ行音は語頭に立たない
   という3つの「上代頭韻法則」のうち、
  ①は、「ヲ」と「オ」、「イ」と「ヰ」、「エ」と「ヱ」が母音音節の甲乙だと考えれば、そんな法則はそもそも存在しない、ということは前章で述べた通りである。

  そして②と③は、現代にも生きている朝鮮語の法則なのであり、このことも「記紀万葉百済帰化人記述説」を裏付ける証拠となる。

「濁音は語頭に立たない」のは朝鮮語の法則
   朝鮮語には日本語でいう清音・濁音(無声音・有声音)の区別がなく、濁音(有声音)は、無気音が語中・語尾で母音や有声子音に続く場合に条件異音(conditional allophone)として現れるだけである。↓

頭韻濁音
語頭に濁音が立たないのは朝鮮語の法則
   
  従って、語頭に持ってきて濁音で発音される漢字は朝鮮語にはないのである。

 例えば、「韓流ブーム」で有名な韓国人俳優の「李炳憲(이병헌)」はカタカナでは「イ・ョンホン」、女優の「崔志宇(최지우)」は「チェ・ウ」と濁音で綴られている。
   しかし、この濁音もやはり「条件異音」であり、姓をとって名前の「병헌」「지우」だけなら、日本人が聞けば/ョンホン/・/ウ/のようにしか聞こえない。
   
   日朝バイリンガルだった百済人二世書記官達は、日本語に清濁音の区別があることは知っていたはずであるが、語頭の清濁音は書き分けたくても書き分ける漢字がなかったのである。
 
  ただ、上代でも唯一、語頭のカ行音とガ行音の書き分けだけはなされているが、これも朝鮮語で説明がつく。
ガ行鼻濁音
朝鮮語でもガ行鼻濁音は発音できる

  朝鮮語の//という子音は、現代ハングル表記では語頭に来ればゼロ子音、語尾に来れば[ŋ]音を表すが、ハングル制定当時はゼロ子音を表す「○」と[ŋ]音を表す「」は別の記号であった。
  従って、『訓民正音』『東國正因』では、「 」は[a,i,u,e,o]ではなく、日本語でいう「ガ行鼻濁音」にあたる[ŋa,ŋi,ŋu,ŋe,ŋo]の様な発音であったはずであり、この発音は現代朝鮮語話者でもできる。

  そして、上の表で清音の/コ/甲類の表記に用いられる「古」「高」「孤」「孤」などとは区別され、濁音の/ゴ/甲類に用いられている「呉」「誤」「五」「吾」「語」などの漢字は、みな頭子音が/ㅇ/ [ŋ]音の漢字なのである。

「ラ行音は語頭に立たない」も朝鮮語の法則
   さらにもう一つの「ラ行音は語頭に立たない」という法則も、現代にも生きる朝鮮語の法則である。

  市販の「韓日辞典」を調べてみればわかるが、朝鮮語では「라이스」(rice)、「리더」(leader)といった外来語を除き、/l、r/音を表す「ㄹ」が語頭にくる単語は朝鮮固有語にも漢語(漢字語)にもないのである。

  また、漢字の発音を「漢韓辞典」を調べれば、韓国人の姓によくある「李」(리)、「羅」(라)などを初め「ㄹ」音の漢字は多数存在する。
   但し、これら「ㄹ」音漢字が文字通りに発音されるのは語中・語尾に現れる場合だけで、姓などのように語頭に現れる場合は「ㄹ」音が脱落して無子音になったり、「ㄴ」(/n/音)に変化したりする。
ラ行音
語頭にラ行音が立たないのは朝鮮語の法則
  

   例えば有名な歌手の「李善姫(리선희)」の実際の発音は「이선희」、 同じく有名歌手の「羅勲児(라훈아)」の実際の発音は「나훈아」である。→

  つまり日本語の側に語頭にラ行音が立つ単語があったとしても、朝鮮式借音仮名ではそれを書き分けることができないのである。

   ただ、日本の「国語辞典」を引いてみると、日本語には朝鮮語と違って、外来語だけでなく漢語でラ行音が語頭に立つ単語がたくさんあるが、朝鮮語と同じく固有語(和語)にはラ行音が語頭に立つ単語はない。(例えば、「リンゴ」は和語ではなく「林檎」という漢語である)

  従って、帰化人書記官達は語頭のラ行音は書き分けられないが、それ以前に書き分ける必要がなかった、という可能性もある。

  韓国人や広東人などには語頭のラ行音とナ行音の区別が付かず、実際に発音出来ない者がいるが、日本人は語頭のラ行音の発音は全く苦にしない。
  にもかかわらず、何故日本固有語にラ行音が語頭に立つ単語がないのかは、別の研究課題となろう。

5.『日本書紀β群』の「倭習」は「朝鮮習」

  中国語学者の森博達は『日本書紀の謎を解く』(中公新書 1999)に於いて、正格漢文で書かれたα群は中国人の述作であるとする一方で、残りの非正格漢文で書かれたβ群は倭人(日本人)の述作であるとし、β群のみに見られる「倭習」を指摘している。
  しかし、これらの「倭習」なるものは、全て「朝鮮習」とみなして構わないのである。

1)山田史三方は朝鮮語話者
   まず、森博達は、正格漢文の「α群」の述作者として、660年の百済滅亡の際に、倭に救援を求める百済遺臣によって献上された106名の「唐人俘虜」の中にいた薩弘恪・続守言等の人物であるとし、これらが『日本書紀』完成前の600年代末頃に死去したため、やむなく倭人にその仕事を引き継がせた、としている。
   そして、その仕事を引き継いで『日本書紀』を完成させた倭人として「山田史三方」(山田史御方・山田史三手)という人物を挙げている。

   しかし、「史姓の氏族は100%帰化人氏族とみなして良い」というのは日本史学界の動かし難い定説であり、中国からの帰化人でないなら消去法で朝鮮からの帰化人に決まっており、しかもこの山田史三方という人物は若い頃は僧侶で、新羅に留学していたという経歴まで解っている。
   これは、新羅に留学していたから朝鮮語が出来たのではなく、朝鮮語が出来たから新羅に派遣されて仏教を学んでいたと考えられ、その没年は解らないが721年の日本書紀完成まで生きていたことは確実であるから、寿命から考えると663年の白村江敗戦によって日本に亡命した百済人の日本生まれの二世で日朝バイリンガルに育った者の一人だと考えられる。(これは仮説であるが、この仮説がβ群の「倭習」から言語学的に証明できるのである)

2)語順による誤用
   森博達は、β群の「若急不計」(「もし急いで計らなければ」正格漢文では「若不急計」)といった誤りは、日本語の語順に影響されたもので、「日本人特有の誤用」としているが、朝鮮語と日本語の語順はほぼ同じなのであり、これはそっくり朝鮮語の語順に影響された誤用であると考えて構わない。

3)次清音・喉音の問題

   森博達は、中国語でいう次清音・喉音の[h]音の漢字、「訶」「許」「虚」「河」「胡」などが、日本語のカ行音の表記に用いられているのはβ群のみ、という事実を強調しているが、このことこそがβ群の述作者が朝鮮語話者であったことを裏付ける最大の証拠となる。

   これらの漢字を『東國正韻』で調べると、、「訶=」、「許=
」、「虚= 」、「河=」、「胡= 」と「」という/h/音で表記されている。
  そして、『訓民正音』には「為次清音」と明記されており、現代朝鮮語学では「激音」とよばれ、その名の如く、中国語の有気音である「次清音」よりもずっと激しい呼気を伴う有気音であり、極端まで行けば/k/音に近くなる。(「カーッ、ペッ」と痰を吐くときの「カーッ」の様な発音)

次清音
中国語と朝鮮語の「次清音」
   →は「許」「虚」「河」「胡」の次清音漢字を、朝鮮語及び中国各地の方言で発音したものである。

  聞いてお分かりのように、例えば「許」は、朝鮮語では激しい呼気を伴う/h/音であり、極端まで行けば/K/音に近くなるのに対し、中国語ではどの方言でも/シュー/・/ヒュー/・/フー/といった発音である。
  これらの文字を中国人が日本語のカ行音の表記に当てるとは思えないが、朝鮮人であればこれらをカ行音の表記に用いることは十分に考えられる。

 注: 『訓民正音』においては、「」の上部の「ヽ」のない「○の上に一」を載せた平音の/h/音記号があり(フォントがないので表示できない)、この音は「全清音」で「初声の場合は○(ゼロ子音)と相似」と解説されている。
  現代では激音(次清音)の「」と平音(全清音)の「○の上に一」の書き分けは無くなり、「ㅎ」が両者を兼ねているため、上の「이선희」「이병헌」の例のように、呼気が弱くなる語中・語尾では「ㅎ」は殆ど発音されないが、「許」「虚」「河」「胡」などの漢字が中世以前において、激しい呼気を伴う「次清音(激音)」であったことは間違いない。

4)アクセントの問題
  森博達は、中国人述作と思われるα群の日本語表記は、漢字の声調によって当時のアクセントをも反映しているが、β群にはそれがないと指摘している。
  朝鮮語はアクセントが意味弁別に機能しない「非音調言語」(non-tone language)であり、当然、朝鮮式漢字音にも声調はなく、朝鮮式借音仮名による日本語表記でアクセントが反映されることはない。
(但し、前章で述べたように、オ段音の「夜」と「世」のように、アクセントの違いの副産物して生じた母音の違いを書き分けることはある)

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朝鮮語の歴史

1)朝鮮語とは

   本書で「朝鮮語」と呼んでいるのは、鴨緑江以南の「朝鮮半島」に有史以前から住んでいた(と思われる)土着民族の言語で、7世紀以前の高句麗・百済・新羅の三国時代の民衆の言語、さらに2~3世紀の『魏志』の記す北方の楽浪郡・帯方郡と南部の三韓地域の民衆の言語である。

  言うまでもないことであるが、朝鮮語と中国語は全く別の言語である。「言うまでもないこと」をあえて言うのは、歴史学者などの中には「朝鮮語は中国語の一方言」などというとんでもない誤解をしている者が現実にいるからである。朝鮮語と中国語は言語構造が全く異なり、普通の日本人が中国人と話をしても片言も通じないのと同様、普通の朝鮮人(韓国人)が中国人と話をしても片言も通じない。

朝鮮語地図  また、現在「朝鮮半島」と呼ばれる地域は、長白山脈の主峰「白頭山」から西に流れ出る鴨緑江、東に流れ出る豆満江以南とされているが、東北の日本海沿岸部(現在の江原道北部と咸鏡道)は、古くから「沃沮」「濊」、後には「女真人」と呼ばれる満州語を話す満州系民族の支配地域であった。

  この地域が完全に朝鮮民族の支配下に入り、朝鮮語地帯となったのは16世紀以降、李朝時代に南部の慶尚道から大量の政策移民を送り込んでからのことであり、古代には朝鮮語地帯でなかったことは注意を要する。

  現代の朝鮮民族の祖は12000年前の最終氷期終結に伴い、半島の西部から南部に住み着いたものと思われる。平均水深が44mしかない黄海は、海面が現在よりも100m以上低かった氷河期には広大な平野だったのであり、そこに住んでいた朝鮮民族の祖が、次第に上昇する海面に追われて高台である半島に上ったのではなかろうか?
   その時以来、時間と共に地域毎に方言差が生じ、また中国人や満州人などの異言語民族による政治的支配により、その方言差が大きくなったとしても、基本的には同じ言語が今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのだと思われる。

  しかし、朝鮮語に限らず、文字史料が現れない限り、当該言語の歴史を正確に語ることは不可能であり、朝鮮語の歴史を遡れるのは三世紀末に作られた『魏志三韓伝』までである。   

「狭義の朝鮮語」

   狭義に「朝鮮」というのは、紀元前に箕氏朝鮮・衛氏朝鮮という植民国家のあった平壌を中心とする平安道一帯のことであり、この地域は後に中国直轄の楽浪郡(及び帯方郡)となり、三国時代には高句麗の版図となった。
   従って、狭義に「朝鮮語」というのはこの地域の民衆の言語ということになるが、この意味での「朝鮮語」がどんな言語かは資料ではわからない。
  というのは、『魏志』には三韓初め、楽浪郡周辺の諸民族の言語についての記述はあるが、直轄支配していた楽浪郡の民衆がどういう言語を話していたかついては何も書かれていないのである。  

2つの高句麗語
  この「狭義の朝鮮」地域は、三国時代には高句麗王朝の支配下に置かれる。
  但し、、高句麗は2~3世紀の魏志時代は、鴨緑江以北の長白山脈の麓の山岳・丘陵地帯のみを版図とする満州系の一部族国家であり、本来の意味での「高句麗語」は満州語の一方言だと思われる。
  但し、この意味での高句麗語がどんな言語であったかも、現在では知る術がない。

  高句麗は313年に楽浪郡・帯方郡を滅ぼして版図に収め、427年に平壌に遷都したため、朝鮮の王朝と呼ばれるようになった。
  しかし、『魏志』によれば2~3世紀の高句麗は、「戸三萬」「無良田、雖力佃作、不足以實口腹」という貧しい部族国家であり、一戸5人として15万人程度の人口を持つだけである。
  それに対し、楽浪郡(狭義の朝鮮)の人口は魏志時代よりも2~300年前の『漢書』の時代で「62812戸、406748人」である。

  楽浪郡を滅ぼして以降の高句麗は、遼東半島・朝鮮半島から満州全体(日本列島の2~3倍の面積)を支配する多民族の大国に発展したが、その広大な領土の維持のために、たった15万人しかいない本来の高句麗人を分散させねばならず、平壌遷都に伴って半島に引っ越してきた高句麗人はせいぜい数千人であろう。
  40万以上の朝鮮語人口の中に、数千人程度の高句麗人が入ってきても、民衆の言語を「高句麗語」に取り替えることは不可能であり、狭義の朝鮮の民衆はそのまま「狭義の朝鮮語」を話し続けたはずである。
  むしろ、支配者の高句麗人の方が、世代交代に伴って朝鮮語に同化していったであろう。

  「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」などというのは、言語社会学の「ゲ」の字も知らぬ者のタワゴトに過ぎない。(単一言語の専門家の中にはこの種のタワゴトを平然と唱える者がいるので注意!)
  満州族の清朝に200年以上支配された漢民族が満州語を話すようになったか、京都出身の細川家に200年以上支配された肥後熊本の民衆が京都弁を話すようになったかを考えてみればよい。
  清朝では、万里長城内に居を移した皇室や満州人貴族達は中国語しか話せず(清朝最後の皇帝・溥儀は満州語は3語しか知らなかったそうである)、京都から着いてきた熊本藩士の子孫は熊本弁しか話せなくなっていた。
  異言語を話す政治的支配者側の人口が民衆の人口よりも圧倒的に少ない場合は、居住区域を分け、現地人との交流を最小限に押さえて、統治機構内で自らの言語を保つのが精一杯、それができない場合は、世代交代により支配者側が民衆の言語に同化してしまう。  

  高句麗朝では、広大な満州・満州人統治の必要性から、宮廷内では人為的努力によって朝鮮語と満州語のバイリンガルを保っていたかも知れないが、人口比から考えて、民衆の言語が「高句麗語」(満州語)に変わったなどということは考えられない。

  満州語の一方言としての「高句麗語」と、高句麗王朝に支配地域の朝鮮語という意味での「高句麗語」は峻別しなければならない。
 
新村説は2つの高句麗語を混同している
   日本語系統論で屡々取り上げられる、新村出の「高句麗語と日本語の近縁説」は、この2つの「高句麗語」を混同している。

  新村出は朝鮮史書『三国史記』の「高句麗の地名」にみられる「高句麗語」の10までの数詞の内の4つが、日本語の「ヒトツ、フタツ、ミッツ・・・」という数詞と類似していること挙げ、「日本語と高句麗語の近縁関係」を論じている。
  しかし、その根拠となっている「高句麗の地名」がどこの地名かを調べてみると、「本来の高句麗」である鴨緑江北岸の満州の地名でもなければ、高句麗王朝全盛期の本拠地である平壌を中心とする平安道の地名ですらなく、全て現在の京畿道と黄海道の地名である。
  この地域は、長年の高句麗と百済の係争の地であり、三国時代終焉時には「高句麗王朝支配地域」だったというだけで、それ以前には百済や新羅が支配していたこともある。
  そして↓の朝鮮語方言地図を見れば解るように、この地域は、百済と同じ中部方言(馬韓方言)地帯なのである。
   従って、この数詞の類似が本当だとしても、それはこの地域で話されていた馬韓方言の数詞と日本語の数詞の類似であって、満州語の一方言である高句麗語との類似ではない。

   では、この数詞の類似が、馬韓方言と日本語の近縁関係の証明になるかというと、全くならない。
   現代では、漢数詞は日本全国津々浦々まで広がっており、また幼稚園児でも「ワン・ツー・スリー・フォー」ぐらい言えるように、異言語民族同士の交流に於いて、最も借用されやすい語彙が数詞である。
  そして、馬韓方言を国語とする百済と倭の間には、長年政治的・経済的・文化的に密接な交流があり、どちらかからどちらかへ数詞が借用されたとしても不思議はない。
  これがどちらかからの借用語でないことを証明できない限り、両言語の近縁関係の証明とはならないが、それを証明できるほどの資料は残っていないのである。(筆者は日本語系統論的には日朝近縁説、ウラル・アルタイ系説を否定しているのである)

韓語
   一方、『魏志三韓伝』に記された半島南部の馬韓・辰韓・弁韓は後に百済・新羅・任那となる。
   この三韓地域で話されていた言語をとりあえず「韓語」と呼ぶとして、この三韓地域の言語の違いは別の言語ではなく、同一言語の方言差であったと考えられる。
  というのは、『魏志』では辰韓・弁辰は「言語法俗與馬韓不同」と書かれているのに対し、半島の西にある島(済洲島)の言語関しては「與韓不同」と書かれているからである。
 
  即ち、辰韓・弁辰では馬韓とは異なる韓語(方言)が話されていたのに対し、済洲島では三韓とは異なる言語が話されていたということであろう。
   また、今日、済洲島原住民の言語は朝鮮語(韓語)とは別系統の言語であったことは確かめられている。(ちなみに筆者は、済洲島原住民語は日本語の一分枝だったのではないかと考えている)

  また、魏志では辰韓と弁韓は「言語法俗相似」と書かれているが、これは第一章でも述べたように「加羅」の問題で、辰韓(慶尚道)方言圏・文化圏にある加羅が、何故か小白山脈の向こうの全羅道を支配していたためであり、馬韓・辰韓と言語法俗を異にする「弁韓」があるとすればそれは全羅道のことであり、これは現在の方言分布でも確かめられる。
(↓の方言地図参照)

「狭義の朝鮮語」と「韓語」は方言差
  問題は、北部の「狭義の朝鮮語」と南部の「韓語」が同一言語の方言差であったのか、別の言語であったのかは資料では確認できないことである。
  しかし、筆者は以下のような理由で、両者は同系言語の方言差であったと考える。

  前述のように、半島東北部日本海側の江原道北部と咸鏡道は古くから女真人(満州系民族)の支配地域であり、朝鮮(韓)民族王朝の統一新羅・高麗・李朝はこの地域を版図に置こうとして非常に苦しんでいる。

  新羅・高麗時代には咸鏡道は支配下に入らず、江原道北部に都護府という軍事拠点を置いて女真人の反乱を監視するに止まり、15世紀の李朝時代になってやっと咸鏡道の征服に成功するが、その後も反乱は収まらず、16世紀以降に、南の慶尚道から海路で大量の政策移民を送り込むことによって漸く安定した支配を確保できるようになった。
(故に、この地域の方言は慶尚道方言に似ていると言われる)
 
   一方、「狭義の朝鮮」は、7世紀の統一新羅は高句麗から黄海道(旧帯方郡)と平安道の約半分を奪うが、もう半分は高句麗の後裔と言われる満州人の渤海に支配され、10世紀の高麗朝時代に渤海が滅んで、漸くこの地域全体が朝鮮民(韓)民族の支配下に入った。
   しかし、新羅や高麗がこの地域を併合した際に、日本海側のように民衆の反乱に苦しんだ様子は全く窺えない。
  これは、この地域の民衆の言語である「狭義の朝鮮語」と「韓語」は、違いがあったとしても、それは同一言語内の方言差であり、お互いの意志疎通には困らなかったということの証であろう。

  異民族を支配する上での最大の障害は、風俗・習慣・宗教の違いなどよりも言語の違いである。 
  言語さえ通じれば簡単に解ける些細な誤解が、言語が通じないことによって殺し合いにまで発展するのであり、そこに異民族統治の難しさがある。

  日本海側の女真人達は、言語の異なる新羅・高麗・李朝などの支配には激しく抵抗したが、言語の通じる満州人の高句麗や渤海の支配には抵抗しなかった。
  逆に、狭義の朝鮮地域の民衆が新羅・高麗・李朝などの支配に抵抗しなかったということは、言語が通じたということの証である。
 (なお、この地域の住民は箕氏朝鮮から楽浪郡時代には中国人に支配され、その後は高句麗や渤海などの満州人に支配され、高麗朝の一時期にはモンゴル人に支配されており、言語の異なる異民族に支配されることに慣れていた、ということはあるかもしれない)

  また、13世紀末、高麗朝時代に書かれた『三国遺事』に現れる朝鮮民族の建国神話、「檀君神話」では、朝鮮民族の祖は、現在の中朝国境にある太白山(白頭山:標高2744m)に降り立った天帝の子と、熊が人間となった女との間に生まれた「檀君」であり、この檀君が山を下りて平壌に入り、朝鮮王朝を建てた、としている。
  この神話は現在の北朝鮮でも韓国でも広く受け入れられており、北朝鮮ではこの「檀君」は実在の人物だとしている。

  朝鮮民族と韓民族が別の言語を話す別の民族であったとすれば、このような神話が広く受け入れられるところとはならなかったはずである。  こういう面から考えても「狭義の朝鮮語」と「韓語」は同じ言語の方言差だったと考えられる。 

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  ↓は、現代朝鮮語方言地図(三省堂・言語学大辞典)と魏志時代・三国時代の地図を比較したものである。

  これを見れば一目瞭然、狭義の朝鮮地域(箕氏朝鮮・衛氏朝鮮・楽浪郡・高句麗)の言語は現代の西北(平安道)方言、馬韓地域(百済)の言語が現代の中部方言(標準朝鮮語)、加羅を含む辰韓地域(新羅)の言語が現代の東南(慶尚道)方言、そして、倭が百済に割譲した弁韓西部(任那西部)の言語が東南(全羅道)方言となっているのである。
(前述のように、馬韓・辰韓と言語法俗を異にする「弁韓」とは、本来全羅道のことであろう) 
  三韓地図朝鮮語方言地図


 中世・現代標準朝鮮語の祖は百済語

  さて、高句麗・百済・新羅の三国の民衆の言語をそれぞれ高句麗語・百済語・新羅語と呼んだ場合、朝鮮語学者は「中世・現代標準朝鮮語は新羅語の後裔」と事も無げに言う。

  しかし、この命題は「朝鮮民族を初めて政治的に統一したのが新羅だった」という歴史的根拠だけに基づくもので、言語学的な根拠は限りなくゼロに近い。
  なぜなら、7世紀以往の高句麗語・百済語・新羅語の異同を論じられるほどの言語資料は残っていないのである。  

  朝鮮に於いて初めて朝鮮語を記述するための表音文字『訓民正音』(ハングル)が発明されたのは1443年のことであり、それ以前は文書は全て漢文体で書かれ、朝鮮語を表記する必要がある際には、「朝鮮式の借音仮名」を以て行われていた。
  日本では既に9世紀平安時代初期に日本語を記述するための平仮名・片仮名が発明され、それ以降、借音仮名による日本語表記は姿を消すが、朝鮮では日本の奈良時代が15世紀まで続いていたのである。

  さらには、ハングル発明以前の「朝鮮式借音仮名文書」自体が非常に少なく、7世紀以往の三国時代の資料となると、文字通り数えるほどしか残っていない。

ハングル発明以前の朝鮮語資料以下の通りである。

『華夷訳語朝鮮館訳語』
  15世紀初頭、李朝時代に編纂されたと中国人(明)の外交官のための朝鮮語辞書のようなものであり、約590語の朝鮮語が中国人の手による「仮借文字」で記録されている。
  これは『訓民正音』制定より30~40年しか遡らず、そこに現れている言語的特徴は『訓民正音』によって知られる特徴とよく一致しているそうである。

『郷薬救急方』
   13世紀半ば、高麗王朝時代に朝鮮人(高麗人)自身によって編纂されたという医薬書で、本文は漢文体だが、薬草の朝鮮名などが朝鮮式借音仮名で書かれている。

『鶏林類事』 
   12世紀初頭、高麗朝時代に宋(中国)の外交官「孫穆」という人物が編纂した辞書のようもので、約350語の朝鮮語が仮借文字で記録されている。

   ある程度まとまった資料があるのはこの12世紀、高麗朝時代までである。

   ここで注意が必要なのは、高麗朝は京畿道の開京(開城)、李朝も京畿道の漢陽(ソウル)を首都としており、そこは三国時代には百済と高句麗が取り合いをしていた地域、三韓時代には馬韓地方に属する、ということである。
   特に『華夷訳語朝鮮館訳語』『鶏林類事』を著した中国人外交官が首都以外に住んでいたわけがなく、これら李朝・高麗朝時代に編纂された資料は、首都のある京畿道方言≒百済語≒馬韓方言を「標準朝鮮語」と見なして書かれているのである。

  三国時代にまで遡れる言語資料は、高麗朝時代に編纂された『三国史記』(金富軾 1145年)、『三国遺事』(仏僧「一然」編 13世紀末)などの史書に残る人名・地名などが殆どであり、文法・語彙・発音などのなどがわかる資料は、『三国遺事』に14首、『大華厳首座円通両重大師均如伝』(通称『均如伝』 1075)に11首、合計25首残る「郷歌」という歌謡だけなのである。

 「郷歌」というのは次のようなものである。

「処容歌」(三国遺事)

東京 明 月          東京(慶州)の明るい月に 
夜入 遊行如       夜更けまで遊んで 
良沙 寝 見      帰って寝床を見ると 
烏伊 四是良羅      脚が四本
肹隠 吾下於叱古        二本の足は自分の足で
肹隠 誰支下焉古          二本の足は誰のだろう
叱良乙 何如為理古     奪われたものを どうしようか

  一見漢文のように見えるが、下線部分は朝鮮式借音仮名で書かれた助詞や活用語尾などである。
  例えば、「隠」は「~は」に当たる助詞の「은」、「乙」は「~を」に当たる「을」、「古」は「~て」に当たる助詞の「고」である(と解されている)。
  そして、名詞や動詞・形容詞の語幹部分、「東京」「明」「月」などは漢字の意味を生かして「訓読み」にしたはずであるが、これらを実際にどう発音したのかはわからない。

  これは、日本の万葉仮名表記法のうち

 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 (持統天皇)
  ハルスギテ ナツキタルラシ シロタヘノ 
           コロモホシタリ アメノカグヤマ

といった自立語は訓読み、助詞や活用語尾だけを音読みにする形式の朝鮮語版であり、この朝鮮語表記法が日本に伝わって万葉仮名表記法になったという説は古くからあり、実際にそうだろう。

  そして、『三国遺事』『均如伝』に収録されている25首の郷歌は全て「新羅」の歌であり、これらの助詞や活用語尾は中世・現代朝鮮語で理解できることから、「中世・現代標準朝鮮語の祖は新羅語」という命題の唯一の言語学的根拠となっている。

  しかし、それは論理の飛躍であり、ここから確実に言えることは「新羅語は朝鮮語の枠内の言語であった」ということだけであり、百済語や高句麗地域の朝鮮語と比較してのことでない以上、それ以上のことは言えない。

  では、三国時代の百済語や高句麗地域の朝鮮語の資料はというと、『三国史記』の「地理史」に出てくる地名から数十語が知られるのみなのである。
  統一新羅時代の757年に、政令によって朝鮮固有語の地名が漢字二字の漢風に改められたが、その改名は朝鮮語地名を漢字で意訳する形で行われ、「地理志」にはその由来が書かれている。
  例えば、元は固有語で「水の谷」/mul-tan/と呼ばれていた場所が、漢字で「水谷」/수곡/と改められた、と言う風に。
  但し、その元となった朝鮮固有語もまた朝鮮式の借音仮名で書かれており、それをどう発音したかもまた正確にはわからないのである。

  このように、三国時代の新羅語の資料が残っているといっても、たった25首の「郷歌」だけであり、まして百済語や高句麗地域の朝鮮語の資料など、『記紀万葉』に膨大な資料がある同時代の日本語に比べれば「無いに等しい」のであり、「中世・現代標準朝鮮語の祖は新羅語」などと言う命題は、資料では確かめようがないのである。
   資料で確かめようの無いことは、歴史や言語社会学的に考察してゆくしたkない。

  上述のように、高麗朝の『鶏林類事』以降の資料は、京畿道方言を標準朝鮮語と見なしていることは明らかであり、現代標準朝鮮語がその後裔であることは疑いない。
  そして、この京畿道は三国時代には百済と高句麗の係争の地であり、三韓時代には馬韓地方である。

  そして、後に新羅となる辰韓は三韓時代に既に後「言語法俗與馬韓不同」、すなわち馬韓とは方言差があった。
  では馬韓方言と辰韓方言を話す人間がどちらが多かったかというと、魏志によれば、馬韓は「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」であるのに対し、弁辰(弁韓と辰韓)は「弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」でしかない。
  また、辰韓の人口を、上述のように辰韓とは別の方言を話していたと思われる全羅道(弁韓)を除いて三万戸と仮定すれば、辰韓方言話者は馬韓方言話者の三分の一程度に過ぎない。

  食料の移入・輸入が困難であった前近代農耕民社会の人口は、耕地面積によって規定されるのであり、三韓から三国時代、統一新羅時代、高麗時代、李朝時代と時代とともに人口は増えたとしても、馬韓方言話者と辰韓方言話者の比率は変わらなかったはずである。
  従って、方言人口の面から見れば、朝鮮語を代表する方言は馬韓方言、即ち百済語である。
  このことは、上の朝鮮語方言地図を見れば一目瞭然である。

   「新羅は旧百済・高句麗地域の支配の為に、新羅語(辰韓方言)を話す役人や兵士を送り込んだはずであり、そこから新羅語は全域に広がったはず」などと言うかもしれないが、もともと辰韓方言話者は馬韓方言話者の三分の一しかいないのである。
   旧百済・高句麗地域支配の為に送り込まれた者など、さらにその何分の一かであって、その地域の総人口から見れば微々たるもの、その程度のことで地域全体の方言が変わったりはしない。
   京都出身の細川家に200年以上支配された熊本の民衆が京都弁を話していないのを見れば明らかである。

  もし、現在の標準朝鮮語、最も方言人口の多い中部方言が新羅語(辰韓方言)の後裔だと言うのであれば、新羅は統一後に

①辰韓地域と馬韓地域の住民の総取り替えを行った
②馬韓(百済)地域の住民を皆殺しにするか、全て域外に追放し、その跡地に新羅の住民を移住させ、その後に現在の方言差が生じた

と考えるしかないが、新羅がそんなことを行った形跡は全くない。  

  テレビもラジオも義務教育もない前近代社会においては、政治権力が変わったからといって、新政権が異言語・異方言を話す新住民を大量に送り込んだり、土着の住民の皆殺しや強制移住・追放などを行わない限り、土着の住民は先祖伝来の言語・方言をそのまま話し続けるのであり、新羅がそんなことを行った形跡がない以上、高麗朝以降の中世・現代標準朝鮮語の祖は百済語・馬韓方言だと考えるしかない。

   「中世・現代標準朝鮮語の祖は新羅語」と言えるとすれば「書き言葉」の面だけである。
   「書き言葉」は全て人工言語、人為的な「教育」を施し、人為的な「学習」によって習得する以外になく、逆に言えば「教育」によって従来のものを全面的に変更することも可能である。
   三国時代の高句麗・百済・新羅では書き言葉の書式に違いがあったとしても、それが新羅による政治的統一によって、書式も新羅式に統一されたはずで、「口訣」「吏読」などの朝鮮特有の書式は新羅起源で、それが高麗、李朝へと受け継がれていったということはあるかも知れない。

  さて、本書のテーマである白村江敗戦で日本に大量亡命してきたのは「百済人」、即ち(他方言話者が多少含まれていたとしても)馬韓方言話者なのであり、その馬韓方言の後裔を「標準朝鮮語」と見なしている中世・現代朝鮮語資料に基づいて考察することは、方法論的になんの問題もないのである。
  (ただ、中国語や日本語では、遠く離れた地方の方言話者同士、例えば津軽弁と薩摩弁で話をしても片言も通じない、ということがあるが、狭い朝鮮半島での方言差はそれほど大きなものではなく、特に隣り合わせの馬韓方言と辰韓方言で話をしても全く通じない、ということは恐らく三国時代、三韓時代でもなかったはずである)











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