日本語に於ける漢字の発音は、主として「呉音」と「漢音」という2種類の発音体系があるが、日本古代史・日本語史の根本資料である『記紀万葉』に於いて、日本語音写に用いられている漢字の発音体系は「呉音」である。
「通説」「俗説」においては、日本の呉音は、中国の8世紀頃の「漢音」の原型となった発音をよりも古い時代の発音を模倣したもの、あるいは倭王朝と交流のあった中国の「呉地方」にあった南朝(宋・済)に於ける発音を原型・模倣したものなどと言われているが、これらの説には言語学的根拠は全くない。
結論から言えば、日本呉音の直接の原型は朝鮮音(百済音)であり、その朝鮮音の原型は「楽浪方言音」、さらに楽浪方言音の原型は、黄海を挟んた朝鮮半島の対岸にある山東半島沿海部方言であると思われる。
また、森博達は『日本書紀』30巻を、正格漢文で書かれたα群と、漢文としての誤用・奇用の多いβ群に区分し、α群を執筆したのは、660年の百済滅亡の際に倭に救援を求める百済遺臣から献上された106名の「唐人俘虜」の中にいた薩弘恪・続守言という中国人だとしている。
森の「日本書紀区分論」は画期的な論考であり、現在では半ば定説化し、日本語研究のみならず古代史研究にも大きな影響を及ぼしている。
しかし、筆者の見るところ、森説には重大な問題点が2つある。
1つは、森は『日本書紀α群』以外の『日本書紀β群』、及び『古事記』『万葉集』等の残余の上代文献は、短絡的に「倭人(日本人)」が書いたと考え、それらに見られる不正確な漢文は「倭習」、それらで日本語の音写に用いられている借音仮名は「倭音」としていることである。
結論から言えば、『日本書紀α群』以外を書いたのは、663年の白村江敗戦後に日本に3000人以上も亡命してきた百済帰化人一世・二世世代(朝鮮語話者)であり、漢文の誤用・奇用は倭習ではなく「朝鮮習(百済習)」、借音仮名の発音は倭音ではなく「朝鮮音(百済音)」である。
このことは、『記紀万葉』、特に『万葉集』の借音仮名表記から発見された「上代特殊仮名遣い」の音声学的分析により証明できる。(拙著『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』参照)
もう1つの問題は、中国での漢字の発音は同時代でも「方言」によって大きな差異があるが、森は方言差を全く考慮に入れておらず、『日本書紀α群』を書いた薩弘恪・続守言らは、当時の中国(唐)の標準語(長安・洛陽の方言)を話しており、日本語の記述に用いられている漢字音も、当時の標準語の発音である「西北音(中原雅音)」であったと短絡的に決めつけていることである。
しかし、日本に来た薩弘恪・続守言らが標準語を話す者であった考える証拠や理由は全くなく、むしろ地理的理由によって、彼らは山東半島から徴発された将校クラスの兵士であり、山東方言を話していた可能性の方がずっと大きい。
即ち、『日本書紀α群』で日本語音写に用いられている漢字音は西北音ではなく、日本呉音の原型である山東方言音である可能性の方が大きいのである。
このことも併せて、歴史と言語の両面から論証する。
(なお、本稿ではYOUTUBEにアップしてある音声映像ビデオを証拠として多用しますが、YOUTUBEから本文に戻る際には、ブラウザの「←」(戻る)をクリックしてください。「×」をクリックすると本文も終了してしまいますのでご注意ください!)
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万葉集 5首 呉音 | 万葉集 5首 漢音 |
中原(長安・洛陽)と呉地方(南京・蘇州) |
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中国各地方言・朝鮮語の「日本」の発音 |
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朝鮮語・中国各地方言音による 大伴旅人の歌 |
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万葉集五首 韓国 | 万葉集五首 山東 |
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万葉集五首 蘇州(呉方言) | 万葉集五首 北京 |
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万葉集五首 客家語 | 万葉集五首 台湾閩南語 |
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万葉集五首 日本呉音 | 万葉集五首 日本漢音 |
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『東国正韻で』補正した朝鮮語での発音 |
漢字の発音変化と「韻書」
絶句・律詩などの伝統的な中国定型韻律詩(漢詩)は、漢字を羅列して意味内容が美しければよいというものではなく、平仄・押韻など、どこにどういう発音の漢字を用いて良いかに関してついて複雑で厳格な規則があり、その制約の中で、音の響きも意味内容も美しい詩を作らねばならない、というパズルの様なものである。(注:漢詩と韻書)
中国では、隋代から門閥貴族による政治の専横を防ぐ為に、民間から優秀な高級官僚を登用する「科挙」という試験制度が取り入れられ、清代まで受け継がれたが、「詩作」はその科挙試験の重要な課題であった。
そのため、科挙を受験する者は、「漢字の正しい発音」を知る必要があり、そのために作られたの発音辞典が「韻書」である。
韻書は三国時代から作られていたというが普及せずに散逸し、隋代の601年に陸法言という人物によって編纂された『切韻』という韻書が、隋・唐代を通じて科挙を通じて中国全土に広く普及して権威となり、後代に作られる多くの韻書の土台となった。
ただ、この『切韻』自体は現存せず、現存する最古の韻書は北宋代の1008年に編纂された切韻の増補改訂版である『廣韻』という韻書である。
その後、北宋代の1039年に『廣韻』を更に改訂した『集韻』が作られ、さらに元代には『古今韻会挙要』、明代には『洪武正韻』、清代には『康煕字典』(これは字書であるが、韻書の役割も持つ)などが作られるが、これらの韻書・字書は全て、唐代に権威として確立した『切韻』に於ける発音体系を「規範的発音」と認めて土台にしている。
ただし、北宋代に成立し現存する『廣韻』や『集韻』と、後の元代・明代・清代に成立した『古今韻会挙要』『洪武正韻』『康煕字典』などを比較すると、そこに発音の差異・変化が認められる。
漢文学者達は、その差異・変化を「時代差」と見なし、北宋代までの発音を「中古音」、南宋代から元代・明代・清代の「近古音」と呼んでいるのである。
韻書に基づく時代差説の盲点
但し、各時代の韻書に於ける発音の差異・変化を短絡的に「時代差」と認めることは早計である。
中央集権国家に於いては、首都の方言が「標準語」と見なされる。
従って、隋・唐代の
上述の様に、各時代に作られた韻書は、隋・唐代の長安や洛陽のでの発音(中原雅音)を模範・標準とする「詩作の為の人工の発音」であり、「呉音」という言葉があるように、唐代においてすら中原出身以外の地方出身者は、日常そんな発音をしていなかったはずである。
だからこそ、科挙によって栄達を目指す地方出身者には韻書が必要だったのであり、唐代400年間の間に『切韻』やその系統の韻書が全国に広まったのである。
また、『切韻』が隋・唐代の中原雅音を反映していると言っても、現存する最古の切韻系統の韻書は、北宋代に作られた『廣韻』であり、その北宋の首都は長安や洛陽ではなく、洛陽から西に黄河を200㎞ほど下った「開封」である。
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開封と杭州 |
それぞれの形式に於いて、「平仄」「押韻」などの何行目の何字目にはどのような発音やアクセントの漢字を用いてよいか、という複雑な規則があり、その制約の中で、意味内容も音の響きも美しい詩を作らなければならないパズルのようなものである。
また、中国の漢詩を詠むための漢字発音辞典である「韻書」が発達したのもこの唐代であり、隋代の601年に作られ、その後作られる各種韻書の手本となった『切韻』(但しこれは現存しない)、この切韻系統の韻書を集大成したとされる『廣韻』(1008年)などは、隋・唐の首都であった長安や洛陽に於ける中原雅音」あったはずで、日本の「漢音」は、当時の中原雅音を外国人が表音文字で書き取ってきた、最も客観的な発音資料であると言える。
「上古音」は、唐・宋代に『切韻』系統の韻書が作られる以前の古い時代に読まれた詩の押韻などから漢字の音価を推定したもので、一部の漢字の発音が後代とは異なっているということが解るだけで、体系的な資料はない。
「中古音」は、上述のように唐・宋代に作られた『切韻』『廣韻』などの体系的な韻書に記された当時の所謂「中原雅音」であり、中国音韻学の基礎とされている。
「近古音」とは、宋代・元代・明代・清代に作られた韻書や字書その他を資料とするものであるが、これらの時代に作られた韻書の多くも『切韻』『廣韻』などの発音を「標準」と見なし、それを改訂増補したものであり、ただ一部の韻書が切韻系統の韻書とは異なる発音を載せていることから、それを時代的変化と考える。
「現代音」は文字通り、標準中国語とされる北京語(マンダリン)に於ける実際の漢字の発音であり、現代中国語の辞書はこの発音体系を標準として載せている。
問題のは「上古音」は資料不足の故にその全貌は解らず、現代音は
「韻書」にせよ「字書」にせよ、そこに記されているのはその時代の「標準語での発音」、或いは「規範論的な発音」であって、標準語以外の方言でどのような発音がなされていたかの資料など、近世以前には皆無に等しく、資料に頼って論じている限り、その時代の「標準語」での発音しか解らないからである。
中央集権国家では、ある地方・都市に首都が置かれ、長く続くと、首都で話される方言が「標準語」となり、様々な方言を話す全国民の共通語として用いられるようになる。 従って、首都が移転すれば「標準語」もまた新しい首都の方言に置き換わる。
例えば、日本では、江戸幕府の成立によって江戸が事実上の首都となり、明治維新以後は名実共に東京が首都となって、東京方言が「標準語」とされるようになった。
一方、大和時代以来江戸開府以前まで「標準語」であった関西方言は「標準語」としての地位は失ったが、関西人はそのまま関西弁を話し続けている。
まして、他の地方の人間は、標準語が関西方言であれ東京方言であれ、その土地に住み続けている限り、日常的にはその土地の方言をずっと話し続けている。(話し言葉の標準化が日本全国で進んだのはテレビが普及した1960年代以降の事である)
長く韻書の手本とされた『切韻』系統の韻書は、長安・洛陽(中原)のの発音を「標準語」と見なして作成され、その後作られた韻書も殆どが切韻系統の発音を「規範論的な発音」としている。
しかし、唐の滅亡後は、五代王朝第二代の「後唐」が洛陽に10年ほど首都を置いたのを最後に、今日に至るまで長安・洛陽が全中国の首都として返り咲いたことはなく、北宋は黄河下流域の「開封」、南宋は江南の「臨安」(杭州)、元・明・清は北京を首都としており、当然「標準語」もそれらの地方の方言に代わる。
これらの時代も、詩作に置いては唐代中原雅音を元にした切韻系統の韻書に基づいて行われたが、これらの都市での実際の漢字の発音は中原雅音とは大きく乖離しており、これらの首都での実際の発音を元にした辞典などの資料は切韻系統の発音とは異なる発音を載せている。
故に日本の中国語学者・国語学者・漢文学者などはこの変化を「時代差」と見なし、中国漢字音は、上古音・中古音・中世音・現代音と時代的に変化したと平気で言うのであるが、彼らは辞書に載っている「標準語」の変化は首都の移転の結果起こる、ということを忘れているのである。
また、首都が遷ることによって、国民全体がコミュニケーションに用いる「標準語」「共通語」は代わるが、それに伴う大きな住民の移動がない限り、日常的に標準語以外の方言を話している人々の言葉は変化したない、ということを忘れてはならない。
山東・遼東・楽浪郡・三韓の位置関係 |
遼東半島は中国(漢民族)の飛び地
現代の世界地図・中国地図を見て、古来から朝鮮と中国の国境は、長白山脈から流れ出る鴨緑江-豆満江で、漢民族と朝鮮民族は鴨緑江を挟んで隣り合わせに住んでいた、などと勘違いしている人が多くて困るが、古来鴨緑江の向こうは中国ではなく「満州」であり、そこに住んでいたのは中国語を話す漢民族ではなく、満州語を話す満州人であり、ここに漢民族が多数住み始めたのは19世紀以降のことである。
ただ、地理的には満州の一部であるが、黄海に突き出した遼東半島だけは、紀元前の遙か昔から漢民族の支配地域であった。
遼東半島と対岸の山東半島は最短100㎞弱であり、晴れた日には相互に観望でき、また山東-遼東には廟島列島という小さな島々が点在しており、しかも黄海は平均水深44mの浅く穏やかな海であり、原始的な筏や丸木船でも漕ぎ渡れたたため、山東半島から遼東半島への漢民族の移住は紀元前数千年、考古学時代まで遡る。
それ以前に遼東半島に住んでいたであろう満州系やモンゴル系の先住民を追い払った漢民族は、紀元前5世紀頃の戦国時代には、半島の付け根に長城(燕の長城)を築いて、満州系やモンゴル系民族の侵入を防いでいた。
つまり、遼東半島だけは紀元前の遙か昔から満州に於ける「中国の飛び地」だったのである。
遼東半島から朝鮮半島西北部への進出
紀元前の遙か昔に遼東半島を占領した漢民族は、その後、その後背地の満州ではなく、鴨緑江を渡って朝鮮半島に向かい、半島西北部の大同江河畔の平壌を中心とする平安道に植民国家を作った。
この平壌を中心とする平安道の平野、及びそこを支配していた国が「狭義の朝鮮」であり、『史記』によれば中国人の植民国家「箕氏朝鮮」の建国は紀元前1122年の事だという。
漢民族が遼東半島からさらに奥地の満州に向かわなかったのは、長城以北は、魏志時代には高句麗(小高句麗)の土地であるが、そこは「多大山深谷、無原澤。隨山谷以為居、食澗水。無良田、雖力佃作、不足以實口腹」というボロ地であって、農耕民族の漢民族には全く魅力がなかったからであろう。
箕氏朝鮮の史実は疑わしいが、朝鮮半島西北部「狭義の朝鮮」に古くから中国人の植民国家があったことは間違いない。
箕氏朝鮮は紀元前195年に燕からの亡命者である衛満に簒奪されて「衛氏朝鮮」となった。衛氏朝鮮は『史記』が書かれた時代とほぼ同時代のことであり、その実在は確実である。
衛氏朝鮮から楽浪郡へ
衛視朝鮮は、紀元前105年に漢の武帝によって滅ぼされ、その跡地の「狭義の朝鮮」は中国直轄の「楽浪郡」なり、以後、前漢・後漢・(公孫氏)・魏(曹魏)・晋(西晋)と歴代中国王朝に受け継がれ、東晋代の313年に高句麗によって滅ぼされるまで約400年間続いた。
楽浪郡はこの間、中国にとって、朝鮮半島のみならず北のモンゴル・満州、朝鮮半島南部の三韓や日本列島など、周辺の東夷・北荻の動向に関する情報収集基地としての役割を果たしていた。
3世紀代に日本列島のどこかに存在した「邪馬台国」の事を記した『魏志倭人伝』が書かれたのも、まだ楽浪郡が存在していた西晋代初期(290年頃)であり、倭王朝(大和朝廷)成立以前の古代日本に関する貴重な史料となっている。
『魏志』以降、日本のことを記した中国史料は、5世紀代の「倭の五王」のことを記した『宋書倭国伝』まで途絶えるため、日本古代史では4世紀は「謎の4世紀」と呼ばれる。
その理由は、楽浪郡が313年に高句麗によって滅ぼされ、さらに晋(西晋)王朝自体が316年に匈奴によって一旦滅ぼされ、南京に首都を遷して再建されて「東晋」として存続するものの、長安や洛陽に保管されていた東夷・北荻に関する漢代以来の史料の多くがこの際に失われ、また楽浪郡から新たな情報も入って来なくなったからである
楽浪郡中国人も山東-遼東方言を話していた
さて、紀元前の遙か昔より、山東半島から遼東半島へ移住した漢民族は、当然山東方言を原型にした方言を話していたはずであり、その後も遼東半島と中国本土との交渉は、海路山東半島を経由して行われているのであって、事実山東-遼東の方言は似ている。
(但し、遼東半島は日露戦争以降、満州開発の拠点として中国各地からの移民が押し寄せたため、大連や瀋陽などの大都市では、現在では標準中国語である北京語が話されている)
また、その遼東半島からこぼれて、朝鮮半島西北部に侵入した漢民族が話していたのも、当然山東(遼東)方言だったはずであり、そこが中国直轄の楽浪郡となった後も、太守などの中央から派遣されてくる幹部は別として、楽浪郡土着の民間中国人たちが話していたのも山東(遼東)方言だったはずである。
元は同じ言語(方言)を話していた集団も、分離し移住して相互に没交渉となれば、長年の間に大きな方言差を生じてくるものであるが、山東-遼東-楽浪郡の間では、異民族に囲まれた地理的環境から、常に濃密な人の往来があり、それほど大きな方言差は生じなかったはずである。
朝鮮語訛りの山東方言音が朝鮮漢字音の原型
楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされたが、その際に楽浪郡土着の民間中国人達はどうなったか?
高句麗軍に殺された者、親戚を頼って遼東半島から大陸に逃げ戻った者もいるだろうが、逃げ遅れた者で、読み書きをはじめ、建築や工芸などに秀でた有能な者は、高句麗にそのまま雇われたり、南の三韓に逃れ、特技を生かして豪族達に雇われたはずであり、この楽浪郡から放出された多数の有能な人材が、高句麗やその後に建国された百済・新羅・加羅(倭)の文明化に大きく寄与したはずである。
但し、楽浪郡滅亡後の半島中国人達の社会・言語環境は大きく変わる。
植民地においては、宗主国人と現地人の居住区域は厳密に分けられ、宗主国人は現地人とは最小限の交流しかしないのが普通であり、また宗主国人は常に本国との往来が頻繁にあるため、何世代に亘って植民地に住んでいても、宗主国の言語を守り続ける。
故に、植民地時代の楽浪郡中国人達は、楽浪郡に定住して何世代経とうと中国語能力を保ち続けていたはずである。
しかし、高句麗や百済・新羅・加羅などの「雇われ人」となった楽浪郡中国人達は、現地人との交流を避けるわけにはいかず、また、朝鮮人豪族達との通婚によって混血も進み、2~3世代後には中国語能力を失い、朝鮮語しか話せなくなっていたはずである。
この、朝鮮語が母語化した楽浪郡中国人の子孫の「朝鮮語訛りの山東方言音」が朝鮮漢字音の起源であろう。
これは、白村江亡命百済人の子孫の「日本語訛りの朝鮮漢字音」が「呉音」として日本に定着したのと同じパターンであり、朝鮮では同じ現象が日本よりも350年ほど早く起こったのである。
ただ、日本では「呉音」が定着してそれほど経たぬ平安時代初期に、当時の唐代「中原雅音」を元にした「漢音」という新たな発音体系がもたらされ、定着したが、朝鮮ではそのような現象は起こらなかった。
その理由は、
① 日本では平安時代初期に平仮名・片仮名という表音文字が発明されたが、朝鮮では1443年に『訓民正音』(ハングル)が発明されるまで表音文字がなく、別の発音体系を記録する手段がなかった
② 朝鮮・中国とも王朝が交替しても、朝鮮と中国の地理的関係は不変であり、常に朝鮮と中国の交流は山東・遼東を窓口にして行われていたのであって、朝鮮人が最も頻繁に耳にする「中国語」とは山東・遼東方言でありつづけた
③ 1443年に漸く表音文字のハングルが発明された時には、中国(明朝)の首都は北京に遷っており、韻書で正格発音として尊ばれている「中原雅音」は首都の中国人ですら発音していなかった(むしろ、北京語と山東方言は、中国八大方言の中では同じ官話方言系に括られる近い方言である)
もちろん、楽浪郡滅亡から今日まで1700年もの時間が経っており、その間に山東・遼東方言も、朝鮮語も徐々に変化しているはずで、現代の個々の漢字をみれば、両者で発音が異なるものも数多くある。
例えば、↑の山東方言特有の/ky/・/gy/音節の例で、朝鮮語で「餃」「校」「交」などの漢字を/キョ/と発音するのは、明らかに山東方言を踏襲したものと考えられる。
一方で山東では「久」「九」などを/キュウ/と発音するのに対し、現代朝鮮語では/ク/と発音し、「久」は古事記・万葉集では日本語の「ク」の表記に盛んに用いられ、後の平仮名・片仮名の「ク」の元字ともなっていることから、朝鮮語では7~8世紀から既にこれらの字を/ク/と発音していたと見られる。
このように、朝鮮漢字音は、個別に見れば他の方言の影響も見られるが、全体として山東方言音が基層にあることは間違いなかろう。
即ち、日本で言う「呉音」という発音体系の原型は、白村江亡命百済人達の朝鮮音(百済音)、その朝鮮音の原型は楽浪郡中国人の発音であり、その楽浪郡中国人の発音の原型は山東(遼東)方言音なのである。
先に紹介した発音実験で、山東・遼東では「日本」を/イーベン/、朝鮮語では/イルボン/と発音すること、『万葉集』の発音では、中国語諸方言の中では山東方言が最も日本語に近く聞こえることなどが、このことを物語っている。
森博達の
『日本書紀α群』中国人記述説
中国語学者の森博達氏による「日本書紀区分論」、即ち漢文体で書かれた『日本書紀』30巻を漢文の正確さという観点で分類すると、正格漢文体で書かれたα群と、漢文としての誤用・奇用の多いβ群に分けることができ、正格漢文のα群を書いたのは660年の百済滅亡の際に、倭に救援を求める百済遺臣が手みやげとして献上した「唐人俘虜」の中にいた、薩弘恪・続守言らの中国人であった、という説は知る人も多いであろう。
森博達による『日本書紀』の区分
α群:14-21、24-27巻
β群:1-13、22-23、28-29巻
(森は、第30巻はどちらに属するか不明としている)
また、森氏は『日本書紀』に収録されている歌謡や訓注の、借音仮名に於ける日本語表記を分析し、α群の借音仮名は中国原音(西北音≒唐代長安音≒中原が音)に基づくのに対し、β群は「倭音」(日本式発音)で書かれているとしている。
森氏の「日本書紀区分論」「日本書紀α群中国人記述説」は学界では高く評価され、現在では半ば定説化しており、森氏とは異なる筆者独自の方法を用いた分析に於いても、『日本書紀α群』を書いたのは中国人であったことは確認できる。
森説の2つの問題点
但し、筆者は森説を全面的に支持するわけではなく、「日本書紀α群以外の借音仮名は倭音」、「日本書紀α群の借音仮名は唐代西北音」という2つの見解には肯首できない。
①『日本書紀α群』以外の献借音仮名は「倭音」ではなく「朝鮮音」(百済音)である
森氏は『日本書紀α群』は中国人が書き、β群や『古事記』『万葉集』その他の上代文献は日本人が書いたと短絡的に決めつけているが、そんな証拠は歴史学的にも言語学的にもないのである。
そして、本稿で述べている通り、『日本書紀α群』以外の借音仮名用字者は、663年の「白村江の戦い」の後に日本に大量亡命してきた百済人、及び日朝バイリンガル(朝鮮語も母語として話せる)の二世世代である。
従って『日本書紀α群』以外の借音仮名は倭音ではなく「朝鮮音」で書かれているのである。
このことは、本稿で示している地理的・歴史的事実や『万葉集』の発音実験などに関係なく、『記紀万葉』から発見された「上代特殊仮名遣い」の「オ段甲乙音書き分け法則」と「現代日本人(特に関西方言話者)の/O/母音の条件異音(conditional allophone)発現法則が完全に一致している、という事実から証明できる。
詳しくは拙著『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』、特に第4~6章を参照されたい。
特に第六章で行っている発音実験は、日本人(日本語ネイティブスピーカー)なら自らの口を用いて実験し検証できるのであり、これまで数百人の日本人に同じ実験をさせてみたが、皆同じ結果となり、異議を唱えた者は一人もいない。
(拙著は刊行直後に森博達氏にも献呈したが、この肝心の部分においてはメールで「生理音声学に疎い私には難解でした」で済ませている。要するにマトモに読んでいないのである)
筆者の「朝鮮音」説に異議を唱えたい向きは、拙著第六章を正確に理解した上で、そこで行っている実験を、別の実験によって否定する以外にはなく、ここでは論じない。
②『日本書紀α群』を書いた「中国人」が標準語話者であったという証拠はない
森氏は、『日本書紀α群』の借音仮名は中国原音で書かれており、その「中国原音」とは「西北音」、即ち唐代の「標準語」である長安や洛陽の「中原雅音」であったとしている。
しかし、前掲の中国各地方言音での「日本」の発音1つを聴いてみれば解るように、義務教育が普及し、テレビ・ラジオ・カセット・CDなどの音声を直接聞くことが出来るメディアが普及している現代ですら、中国では同一漢字に何十もの発音が併存しているのである。
テレビ等が普及した今日であれば、どんな地方の人間も幼児期からテレビで「標準語」を聴いて育つので、地方出身でも標準語の発音ができるということはあるが、そんなものが全く無かった唐代において、言語形成期を長安や洛陽で過ごした者でない限り、中原雅音など発音出来なかったはずである。
そして、森氏は『日本書紀α群』を書いた「中国人」は、660年の百済滅亡の際に、倭に救援を求める百済遺臣達が手みやげとして献上した「唐人俘虜」の中にいた薩弘恪・続守言らだと措定しているが、一方において彼らが長安や洛陽出身であるという証拠は全くないのである。
口頭言語と異なり、どんな言語でも文字言語は人工言語、人為的な「教育」を施し、「学習」によって習得する以外になく、逆に言えばちゃんとした教育を受けた者なら、日頃はどんな酷い訛りのある方言を話していても、文章は標準語で書ける。
関西出身の堺屋太一氏や竹村健一氏は(そして、恐らく兵庫県出身の森博達氏自身も)日頃関西方言を話しているが、彼らの書いた論文や論評を読む限り、彼らが関西方言話者であることなど読みとれないであろう。
それと同じで、漢文の正確さや、日本語の音写に用いられる漢字の種類が『日本書紀β群』や『古事記』『万葉集』などと異なることから、『日本書紀α群』の著者が中国人であることは確かめられても、その著者が当時の「標準中国語」を話していたことの証明にはならず、『日本書紀α群』の借音仮名が標準語の「西北音」であったことの証明にはならないのである。
森氏が『日本書紀α群』に用いられている中国原音が「西北音」(唐代長安音)だとする根拠は、要するに当時の中国での漢字の発音を知る資料は、隋・唐代に作られ、長安や洛陽の方言に於ける発音を雛形にした『切韻』系統の韻書(漢字の発音辞典)以外に無く、山東を含め、他の地方での発音など全く解らないから、というだけのことである。
(『切韻』等の韻書についてはWikipediaや愛知県立大学の「音韻学入門」というページに詳しい。但し、これらのページも、漢字音の変遷を方言差よりも時代差に求める傾向が強く、筆者とは立場が異なる)
『日本書紀α群』述作者は山東方言話者
本稿前半の朝鮮語及び中国各地方言音による『万葉集』の発音実験から、日本呉音の原型は朝鮮音(百済音)、朝鮮音の原型は山東音ということには納得頂けたと思う。
ところで、森氏が『日本書紀α群』の述作者と措定している薩弘恪・続守言らは、660年に唐・新羅同盟軍が百済の首都を陥落させた際に、百済軍に捕らわれた「俘虜」であるが、
上の中国と朝鮮半島の地理的関係から見れば解るように、中国から朝鮮半島、特に南部の百済に攻め込む場合は、山東半島から海路攻め込むのが最も合理的なのであり、事実この660年の百済討滅戦の際に唐軍は山東半島から攻め込んでいる。
もちろん総司令官など高位級の軍人は首都から派遣されてきただろうが、18万と言われる兵卒の大半は朝鮮半島に近い山東及びその周辺から徴発されたはずである。(当時遼東半島は高句麗領であって、遼東から兵を徴発することは無理だった)
とすると、前線に出て捕虜になってしまう薩弘恪・続守言らが首都から派遣されてきた高位級の人物であったとは考え難く、むしろ山東人であった可能性の方が大きいであろう。
山東方言と朝鮮語による『日本書紀α群』『古事記』同一歌の発音
筆者説では、『万葉集』を書いたのは朝鮮語話者(百済人)であるが、朝鮮語話者が書いたものを山東方言話者が読んでもかなり日本語に近く聞こえるということは、『日本書紀α群』を書いた薩弘恪・続守言らが山東人であるならば、『日本書紀α群』に収録されている日本語の歌を山東方言話者に読ませてみれば、もっと日本語に近く聞こえるはずである。
『古事記』『日本書紀』は歌謡集ではないが、『古事記』には112首、『日本書紀』には128首の借音仮名で書かれた歌謡が収録されており、「記紀歌謡」と呼ばれるが、うち40~50首が重複している。
但し、『日本書紀』に収録されている128首の歌謡の大半はβ群にあり、中国人記述とされるα群にあるのは10数首に過ぎず、うち『古事記』と重複しているのは4首のみである。
そこで、この4首を山東方言音、朝鮮音、及び日本呉音で発音して比較する実験を行ってみた。
これらから推定される元となる日本語の発音と歌の意味は写真の下の通りである。
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日本呉音 日本書紀 | 日本呉音 古事記 |
さて、『日本書紀α群』を除く『記紀万葉』等の日本語音写には、中国音韻学に照らして「呉音」とも「漢音」とも呼べない特殊な発音をしたと思われる漢字が幾つか存在し、それらは「古韓音」と呼ばれている。
例えば「其」(漢音では/キ/)を/ゴ乙/に、
「己」(漢音では/キ/)を/コ乙/に、「里」(漢音では/リ/)を/ロ乙/、「宜」(漢音では/ギ/)を/ガ/に、「移」(漢音では/イ/)を/ヤ/にあてるといったものである。
日本以外でのこれら「古韓音」の用例は、主として異民族言語の人名・地名などの音写だそうである。
従来、「古韓音」は、切韻系統の韻書が成立する遙か以前の、紀元前の周代、漢代の古い発音「上古音」の名残り、というのが一般的な見解であったが、筆者は「古韓音」は山東方言音を原型としつつも、楽浪郡で独自の発達を遂げた「楽浪方言音」ではないかと考える。
というのは、中国漢字には存在しないのに、日本の上代文献には/テ/の音写に盛んに用いられる「弖」という特殊な文字の存在である。
この「弖」という字は、「氐」を左右反転した鏡像文字だとおもわれるが、上の『日本書紀α群』『古事記』同一歌でも、『古事記』では盛んに用いられているのに、『日本書紀α群』では全く用いられない。
日本に於けるこの「弖」の使用は古く、既に470年前後に作成されたと思われる稲荷山古墳鉄剣銘にも用いられており、長く「和製漢字」だと思われていたが、実はそれよりもっと早く、414年建立とされる「高句麗好太王碑文」(広開土王碑文)にも用いられており、和製漢字ではない。
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稲荷山古墳鉄剣銘 | 高句麗好太王碑文 |
平安時代初期にもたらされた「漢音」という漢字の発音体系は、遣唐使に伴う入唐留学生達が、唐代の首都である長安や副都である洛陽などでの発音を平仮名や片仮名で書き取ってきたものであり、同時代に成立した『切韻』『廣韻』系統の韻書に記されている「唐代中原雅音」の発音を外国人が表音文字で記した最も客観的な資料とも言える。
(『切韻』『廣韻』については上のWikipediaや愛知県立大学の「音韻学入門」 などを参照されたい)
ということは、拙著『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』の万葉集発音実験で、日本語の漢音での発音に最も近い発音をする方言が「唐代中原雅音」の系統を引く方言だと考えられるが、筆者が主観的に最も漢音に最も近い発音をしていると思ったのは、西安(長安)や洛陽の方言ではなく台湾閩南語であった。
これらの発音実験を聴けば解るとるとおり、湾台湾閩南語では「日本」を/ジップン/、「武」を/ブ/、「義」を/ギ/、「和」を/クヮ/、「須」を/ス/、「古」を/コ/、「美」を/ビ/、「奴」を/ド/と発音しているが、これらは他の方言ではあまり見られない。
「閩南語」というのは、廈門を中(アモイ)心とする福建省南部の方言であるが、この廈門という 都市は、唐代の755年からの「安録山の乱」で中原(長安や洛陽)が荒廃した際に、中原から避難してきた人々が
先住民の「閩」という異民族を追い払って建てた都市であるため、ここの方言が唐代中原方言の系統を引いていることは歴史的に説明が付く。
そして、「台湾閩南語」の漢漢字音が「中原雅音」と似ていることは、単に筆者の主観だけではなく、中国人の研究者達も認めているようである。
この「閩南語」にも4系統ほどの亜亜亜亜流があるそうで、台湾が「閩南語」圏であるのは、16世紀に始まった台湾への移民はこの廈門から送り出された者が多かったため、台湾最大の方言となっており、台湾の閩南語は単に「台湾語」とも言われる。
唐代の長安・洛陽の住民の多くは、五代・北宋の首都である開封などに移住し、さらに開封が満州人の金に攻め落とされて江南の杭州に遷都した南宋時代には、杭州や、さらに南で当時はまだ未開であった福建・広東などに移住した者が多いため、福建や広東には唐代中原雅音の系統を引く方言が局地的に残っているとされ、↑の「日本」の発音実験で、これを/ニップン/と発音した福州方言や客家語、そして「閩南語」もその一つである。
長安(西安)や洛陽は、遠く周代から中華文明の中心地(中原)で、全中国の都は長安か洛陽にあるのが正しく、漢字の発音は長安・洛陽の発音が正統とされてきたが、その長安・洛陽は安録山の乱(755年)以降治安が悪化、907年に唐が滅ぶと荒廃し、以後二度と全中国の都として返り咲くことなく今日に至っており、この唐末・五代の混乱時代に多くの住民が故郷を捨てて移住し、現在の西安や洛陽の住民は、首都が北京となった元代以降に流入してきて住み着いた者の子孫が大半であるため、その方言は北京語とあまり変わらない。
だけの実験ではなんとも言えないが、いずれにせよ福建省・広東省あたりの方言漢字音を、その都市・地方の歴史に照らしながら詳しく調べて行けば、日本の「漢音」のルーツに当たる発音体系が見つかるのではなかろうか。
「
中原(長安・洛陽)と呉地方(南京・蘇州) |
漢詩と韻書
「漢詩」というと「漢字を五つとか七つ並べて作った詩的な文でしょ?」と誤解している人が多いが、そんな単純なものではない。
「平仄(ひょうそく)を合わせる」「韻(いん)を踏む」といった言葉を聞いたことがあるかも知れないが、漢詩は中国語で発音して、意味内容だけでなく、言葉のリズム・抑揚・音の響きを楽しむ韻律詩であり、どこにどんな発音の漢字を使うべきか、使ってよいかに関して非常に複雑な規則があり、その制約の下で、如何に意味内容も音の響きも美しい詩を作るかを競うパズルのようなものである。
例えば、下の詩は日本でもよく知られた唐代の孟浩然(689-740)の「春暁」という詩で、「五言絶句」と言う最も簡単な形式の詩であるが、この形式ですら非常に複雑な規則がある。
春眠不覚暁 ☆☆★★◎ chūn mián bù jué xiăo 春眠暁を覚えず
処処聞啼鳥 ★★☆☆◎ chù chù wén tí niăo 処処鳥啼くを聞く
夜来風雨声 ★★☆☆★ yè lái fēng yŭ shēng 夜来の風雨の声
花落知多少 ☆☆☆★◎ huà luò zhī duō shăo 花落つること
知りぬ多少ぞ
(但し、このローマ字表記は現代北京語での発音である)
まず、全ての漢字は声調(アクセント)によって「平声」と「仄声」に二分され、これを適度に散らばらせ、メリハリを付けなければならない。
五言絶句の場合、各行の二字目と四字目の平仄は別でなければならず(二四不同)、二行目の二字目・四字目の平仄は一行目とは逆、三行目の二字目・四字目の平仄は二行目と同じ、四行目の二字目・四字目の平仄は一行目と同じにしなければならない。
五言絶句の平仄と押韻規則
平起式 仄起式
第一行 △☆△★★ △★△☆★
第二行 △★△☆◎ △☆△★◎
第三行 △★△☆★ △☆△★★
第四行 △☆△★◎ △★△☆◎
☆平声 ★仄声 △平仄どちらでもよい ◎押韻
これが「平仄を合わせる」という言葉の意味だが、要するに一行目の二字目に平声漢字を使う(平起式)か、仄声漢字を使う(仄起式)かによって、全ての行の二字目・四字目の漢字の平仄は決まってしまい、平仄に関係なく好きな文字を使えるのは、各行の一字目と三字目だけである。
さらに、二行目と四行目(できれば一行目も)の末尾(五字目)には、「押韻(おういん)」といって、同じ「韻母」(母音と終声子音)に属する漢字を用いなければならない。
この「春暁」では、第一行二文字目に「眠(mián)」という平声漢字を用いている「平起式五言絶句」であり、上に述べた平仄の規則にちゃんと規則に従っており、一、二・四行目の五文字目に「暁(xiăo)」「鳥(niăo)」と「少(shăo)」という同じ/ăo/という韻母の漢字で押韻している。
この平仄や押韻の規則に従って文字を選ぶことをと「撰」といい、規則を破った詩は「破格」と呼ばる。
「杜撰(ずさん)」という言葉があるが、宋代の「杜黙」という有名な詩人が、平仄を合わせるのを面倒くさがって破格の詩をたくさん作ったことから、「杜黙の撰」→「杜撰」→「いいかげん」という意味で使われるようになった故事成語である。
このように、何千・何万とある漢字一つ一つの意味だけでなく、それが平か仄か、どの種類の韻母に属するかを知っていなければ規則通りに漢詩は作れず、そのために漢字の発音辞典が必要になってくるわけで、そういう目的で7世紀頃から作られ始めたのが「韻書」と呼ばれる辞書である。
たかが「詩作」と思われるかも知れないが、即興でも(韻書を見ずに)ちゃんと平仄を合わせた詩が作れる、というのが当時の中国のエリートの条件であり、「科挙」(高級官僚登用試験)の重要な課題でもあったので、エリートを目指す人々、特に地方出身の人々は韻書によって必死に当時の標準語である中原方言の漢字音を覚えたのである。