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1.「呉音」と「漢音」

「行」の字
 1)『記紀万葉』の借音仮名表記は「呉音」 
    日本語における漢字の「音読み」には、「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」という4種類の発音があり、漢和辞典を見れば各文字に「呉」「漢」「唐」「慣」などという印がついている。

   例えば「行」という字には、「ギョウ」(「修行」(シュギョウ」)、「コウ」(「銀行」(ギンコウ)」)、「アン」(「行燈」(アンドン))という読み方があり、「ギョウ」が呉音、「コウ」が漢音、「アン」が唐音である。

  このうち、今日一番普及していて「普通の読み方」とされるのが「漢音」、次が「呉音」で、「唐音」「慣用音」は少数の漢字にしかない。

  そして、『記紀万葉』で日本語表記に用いられている借音仮名は「呉音」及び「慣用音」で読む(発音する)と日本語らしく聞こえ、一番普及している「漢音」で読むと何を言っているのかわからない。

例えば、万葉集巻五の大伴旅人の歌(通番793)は

   余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
       伊与余麻須麻須 加奈之可利家理


「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」
と解されている。

しかし、この漢字の発音を「漢和辞典」で調べると

呉音: ヨノゥナカハ ムナシギモゥナィトゥ シルトゥギシ
           イヨヨマスマス カナシカリケリ (「奈」は慣用音)

漢音: ヨドゥダィカハ ボゥダィシキボゥダィトゥ シリュウトゥギシ
           イヨヨバシュバシュ カダィシカリケリ
となる。
 
   ↓はこの歌を含め、万葉集の歌5首を漢和辞典に出ている「呉音」と「漢音」で発音したものである。(写真をクリック!)

1.余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
              伊与余麻須麻須 加奈之可利家理
2.烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 
              和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
3.宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 
              比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣
4.古非思家婆 伎麻世和我勢古 可伎都楊疑 
              宇礼都美可良思 和礼多知麻多牟
5.夜麻河泊能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母 
              奈良能美夜故波 和須礼可祢都母

  
呉音 漢音
万葉集 5首 呉音 万葉集 5首 漢音

  
聞いてお分かりのように、「呉音」で読んだものは現代語でも何となく理解出来るのに対し、「漢音」で読んだものは何を言っているのかさっぱり理解出来ないであろう。

  『記紀万葉』の借音仮名に用いられている漢字の発音体系は「呉音」(及び「慣用音」)である、というのはこういう意味である。

2)「呉音」に関する俗説

  
  この「呉音」と「漢音」という二大発音体系のうち、「漢音」の出自は明確である。

  それは、は奈良時代~平安時代初期(8世紀~9世紀)の遣唐使に伴う入唐留学生達が、唐の首都であった長安や副都であった洛陽での発音、所謂「中原雅音」を、すでに発明されていたカタカナや平仮名で音写してきた発音を原型とするものである。 このことは歴史学的にも言語学的にもほぼ間違いない。 (「漢音」については後に詳しく論じる)

   それに対し、問題の「呉音」は、入唐留学生達によって「漢音」が輸入される以前から日本にもたらされ、600年代末から700年代前半に編纂された『記紀万葉』等の上代(奈良時代)文献、さらにはもっと古い490年頃作成と見られる「稲荷山古墳鉄剣銘」に於いても日本語音写に用いられている。

中国での漢字音の変化に起源を求める説
  故に「呉音」は、中国での漢字の発音の時代差、即ち中国で7~8世紀の唐代に「漢音」が確立する以前の、古い中国語の発音体系が日本にもたらされ、それが残ったもの、という説が最も流布している。
   例えば「6~7世紀に隋・唐が成立する以前の、3~5世紀の魏(曹魏)や晋の時代の発音(魏晋音)を原型にしたもの」といった説である。
  
中国漢字の方言差に起源を求める説
  それに対し、中国漢字の方言差にその起源を求める説もある。
中原と呉地方
中原(長安・洛陽)と呉地方(南京・蘇州)
  

  「呉音」という言葉の本来の意味は、「呉地方に於ける(田舎風の)発音」という意味である。

  「呉」というのは、揚子江下流地域にあった国で、春秋・戦国時代(紀元前8~紀元前3世紀)の「呉」は蘇州、三国時代(3世紀)の「呉」は南京を首都としていた。

  中華文明は、紀元前1000年頃の周代以来、黄河支流の渭水のほとりにある「長安」と黄河中流域にある「洛陽」を中心として発展し、故にこの一帯は「中原」と呼ばれ、漢字の発音も長安や洛陽での発音が「中原雅音」と呼ばれ、標準とされていた。

  しかし、周代以来の中華文明の中心地であった長安・洛陽は、晋王朝(西晋)時代の316年に北方遊牧民の匈奴によって陥落、晋王朝は一旦滅亡し、翌317年に三国時代の「呉」の首都であった南京に都を移して再建された(東晋)。

  しかし、長安と南京は直線距離で約960㎞、洛陽と南京でも660㎞も離れており、呉地方で話されていた中国語と長安や洛陽の「標準語」とは大きな方言差があったため、中原から逃げ延びてきた晋の王族・貴族・官僚達が、南京や蘇州の方言での田舎風の漢字の発音をバカにして「呉音」と呼んだのがこの言葉の起源である。

  その後、南京を首都とする東晋は禅譲によって宋・済・梁・陳と4つの王朝に受け継がれて「南朝」と呼ばれた。
  一方晋の東遷後、華北・中原は約150年に亘って「五胡十六国」と呼ばれる小国分立の大動乱時代となるが、442年に鮮卑族の拓跋氏の「魏」洛陽を首都として華北を統一し、「北朝」と呼ばれ、以後中国は150年近く「南北朝時代」と呼ばれる時代となる。

  なお、晋は東遷の際に中原から多くの文化人を引き連れて行ったため、南北朝時代の中華文明の中心地は南京に遷り、倭(日本)や百済・新羅などの周辺諸国も、南朝を中国正統王朝として認め、南朝に朝貢して爵位を得たりしている。
  (南京を首都とした東晋・宋・済・梁・陳に、三国時代の呉を加えて「六朝」(リクチョウ)と呼び、そこで栄えた文化を「六朝様式」「六朝文化」などとも呼ぶ)

  589年に北朝から出た隋が南北朝を統一して長安を首都とし、隋は618年に滅ぶが、統一は唐に受け継がれ、長安を首都、洛陽を副都としてその後908年まで続く。
  この隋・唐代に、南朝の文化人達も再び長安・洛陽(中原)に集結するようになり、中原は中華文明の中心地として返り咲く。

  そしてこの唐の時代に、長安や洛陽の発音である「中原雅音」を標準とした『切韻』という韻書(漢字の発音辞典)が作られて全土に広まり、その後、切韻系統の「中原雅音」が長く標準漢字音として受け継がれるようになり、後代に作成された韻書も大半は切韻系統の韻書を模範とするようになる。

  文化人達が中原に再集結した隋・唐代以降も、「呉音」という言葉は残るが、それは必ずしも呉地方の方言音を指すものではなくなり、広義には「中原雅音」以外の方言での「田舎風の発音」全てを「呉音」と呼ぶようになった。

  さて、大和朝廷(倭王朝)は「倭の五王」の時代(5世紀)に、南朝を中国正統の王朝と認め、宋・済と通好し爵位を得ており、日本書紀では南朝のことを「呉国」と呼んでいる。
  故に「倭の五王の時代から親交のあった呉地方の方言漢字音(呉音)を模倣したものが日本でいう呉音」であるという説もまた広く流布していいる。

  まとめると、「呉音」と「漢音」の違いは、
①中国での漢字の発音の時代差を反映したもの 
②中原と呉地方との方言差を反映したもの
という説に大別できるが、①②を折衷して、
③日本呉音の原型は、5世紀頃の呉地方での発音であるが、呉地方の方言音も、また日本に輸入された発音も、時代と共に変化した
という説が一般に流布している、ということである。

  しかし、これらのような日本呉音に対する「俗説」を否定するのが本稿の目的である。

  結論から言えば、日本の呉音と漢音の違いは、主として模倣した漢字音の「時代差ではなく方言差」である。
  但し、日本の「呉音」が模倣したのは俗説で言われる呉地方の方言音ではなく、朝鮮音(百済音)であり、さらに朝鮮音の原型は黄海の対岸にある山東半島沿岸部の方言音であると考えられる。

3)中国漢字の方言差


   日本に於いて、韻書・字書・詩文などの文献資料に依拠した伝統的な方法で漢字音を研究する人々、例えば藤堂明保氏や白川静氏から、今日声望の高い森博達氏にいたるまで、その系譜を引く研究者達は、生きた中国語を研究する「中国語学者」というよりは「漢文学者」と呼んだ方が良い。
  彼ら文献資料に依拠して漢字音を研究する漢文学者達の「定説」「常識」は、

上古音:紀元前の周・漢代から3~5世紀の魏(北魏)・晋代の発音
中古音:6~12世紀頃までの隋・唐・五代・宋(北宋)代の発音
近古音:12世紀~19世紀の宋(南宋)・元・明・清代の発音
現代音:19世紀以降の北京語での発音を基準とする現代の発音

という風に、中国での漢字の発音は時代的に変化してきた、というものである。  
   しかし、彼らは各時代の漢字音の方言差など殆ど、或いは全く視野に入れていない。
   何故なら、断片的な資料しかない上古音、直接耳で確認できる現代音を除き、彼らが唐代から清代に至る中古音、近古音の研究の際に依拠する各時代の音韻資料は、主として各時代に作成された『切韻』系統の「韻書」や「字書」であるが(後述)、それらに記されているのはあくまで唐代以来の「正統的発音」「規範論的発音」であって、前近代の方言に於ける発音を記した体系的な資料などないからである。

   しかし、
「日本」
中国各地方言・朝鮮語の「日本」の発音
「漢文学者」ではなく「生きた中国語」を扱う本当の意味での「中国語学者」なら、中国語にどれだけの方言差があり、方言によって同じ漢字に同時代でも何十通りもの発音があることを知っている。

   右は現代中国各地の方言漢字音、及び朝鮮漢字音に於ける「日本」という文字の発音である。 

  現代漢和辞典に載っている漢音では、「日本」は/ニッポン/あるいは/ジッポン/と発音することになるが、現代標準中国語である北京語では/リーベン/の様に発音する。
 
  漢文学者達の伝統的な時代差説に従えは、「日本」は7~9世紀の唐代の中原雅音(漢音)では/ジップン/・/ニップン/などと発音したが、それが1300年経った現在では/リーベン/に変化したということになる。

   しかし、聞いてお分かりのように、中国では「日本」という漢字1つにすら、現代でも方言によって大きな発音差があり、/リーベン/の他に、/ジップン/・/ニップン/、英語の/Japan/に似た/ザパン/等々の発音がちゃんと併存しているのである。   

   唐・宋代の中古音では「日本」を /ニッポン/のように発音したが、現代音ではそれが/リーベン/に変化した、などという漢文学者の説はこの録音1つでで吹っ飛ぶであろう。
  (これまでプロ・アマ含め数百人の人間にこの録音を聞かせたが、時代差説に基づいて反論した者、反論出来た者は一人もいない)

   中国の漢字音は、一つの文字に対し、同時代でも方言差によって何十通りもの発音が併存しているのであって、 漢文学者達の規範論的な時代差説を単純に信用してはならない。

朝鮮語及び中国各地方言漢字音で読んだ万葉集

  さて、上の「日本」の例のように、同時代に幾つもの発音が存在しているのであるから、これら各地の方言漢字音で『万葉集』の歌を発音させてみれば、日本の「呉音」や「漢音」で発音した場合と似ているものが見つかるはずである。

  そこで、拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」では、中国18ヶ所の方言漢字音、及び朝鮮漢字音で万葉集の歌10首を発音する、という実験を行ってみた。
  ↓は そのダイジェストで万葉集巻五 大伴旅人の歌(通番793)の比較である。

      余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
                 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理
世の中は
朝鮮語・中国各地方言音による
大伴旅人の歌
  
   お分かりの通り、呉方言(蘇州方言)で読んでもちっとも日本語らしく聞こえないが、朝鮮語(韓国語)で読めば、かなり日本語に近く聞こえる。
   また、中国諸方言の中では、俗説で日本の「呉音」の原型と言われている呉方言(蘇州方言)よりも山東方言の方が日本語に近く聞こえることがお分かりであろう。

  既に、プロ・アマ含め千人以上の人々にこの録音を聴かせてきたが、一番日本語(呉音)に近く聞こえるのは「朝鮮音」、中国各方言音の中では「山東音」という 意見に意義を唱えた者はただの一人もいない。
(統計的危険率は0%有意である)

  「この1首だけでは何とも言えない」という向きのために、韓国語・山東方言・北京語・蘇州方言(呉方言)・台湾閩南語・日本漢音・日本呉音に絞ってお聞かせしよう。 (後述するように、台湾閩南語は最も中原雅音≒漢音の特徴を残していると言われている)

1.余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 
              伊与余麻須麻須 加奈之可利家理
2.烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 
              和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
3.宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 
              比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣
4.古非思家婆 伎麻世和我勢古 可伎都楊疑 
              宇礼都美可良思 和礼多知麻多牟
5.夜麻河泊能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母 
              奈良能美夜故波 和須礼可祢都母

韓国 山東
万葉集五首 韓国 万葉集五首 山東
蘇州 北京
万葉集五首 蘇州(呉方言) 万葉集五首 北京
客家 台湾
万葉集五首 客家語 万葉集五首 台湾閩南語
呉音 漢音
万葉集五首 日本呉音 万葉集五首 日本漢音

採録地

   もっと聞きたい向きは、拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」の付録CDに朝鮮語と、上図の中国18ヶ所の方言で読んだ万葉集の歌10首ずつが収録されているので、ご購入頂いてそちらを参照されたい。

4)「日本呉音」の原型は朝鮮漢字音

   この『万葉集』の発音実験を聞いて、日本語の「呉音」に最も似ているのは、蘇州等の「呉地方」の方言音ではなく、朝鮮音であることに異議を唱えた者は一人もいない。

    この朝鮮語での発音は、「現代漢韓辞典」に載っている発音に基づくものであるが、朝鮮で表音文字『訓民正音(ハングル)』が制定されたのは1443年であり、以後現代までの500年余の間に、ハングルの表記体系の変化(朝鮮語の音韻体系の変化ではなく)に伴って、漢字の発音も変化している。

万葉補正
『東国正韻で』補正した朝鮮語での発音
   ハングルを用いて漢字音を表記した最古の資料は『東国正韻』(1447年)であるが、これにより補正することによって、朝鮮語での発音はさらに日本語に近づけられる。
(詳しくは拙著 『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』第七章参照)




  いかがであろうか?
  これらの録音を聴くだけで、『記紀万葉』(『日本書紀α群』を除く)の日本語表記に用いられている借音仮名の「呉音」という発音体系は、

●後に輸入される「漢音」との時代差ではなく方言差である。
●方言差といっても、「俗説」で言われる南京・蘇州などの「呉地方」の方言音が原型ではなく、朝鮮音(百済音)がその原型である


ということは明らかであろう。

  但し、『記紀万葉』(『日本書紀α群』を除く)の借音仮名表記は、朝鮮人(百済人)から漢字音を習った日本人が行っていたのではなく、663年の白村江敗戦に、日本に大量亡命してきた百済人達、及び日本生まれ・日本育ちで日朝バイリンガルに育った二世世代が行っていたのである。

   このことは、上の『万葉集』の発音実験とは全く関係なく、『記紀万葉』の借音仮名表記から発見された「上代特殊仮名遣い」の音声学的分析によって、完全に証明できる。

というのは、
①「上代特殊仮名遣い」に於いては、日本人(日本語ネイティブスピーカー)が全く無意識・無自覚のうちに「conditional allophone(条件異音)」として発音し分けている2種類の/O/母音が文字で書き分けられている。
     拙著 『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』第六章 
②「allophone(異音)」を聞き分け、書き分けることが出来る者がいるとすれば、そのallophoneを自らの母語において「別の音素(phoneme)」として認識する言語的外国人以外にあり得ない。
     拙著 『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』第五章 
③『記紀万葉』が成立した600年代後半から700年代前半に日本国内に存在した言語的外国人は、森博達氏指摘の少数の中国人と、多数の百済人(朝鮮語話者)だけである。
     拙著 『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』第二章 
④中国人が記述したのが森博達氏指摘の『日本書紀α群』だけなら、消去法でそれ以外の『記紀万葉』を記述したのは百済人としか考えられず、(少なくとも中世・現代朝鮮語には日本人に判別し難い2種類の/O/母音が存在するのである。
     拙著 『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』第七章 
という論理構成である。

  特に重要なのは第六章であり、このことは日本人(日本語ネイティブスピーカー)なら誰でも自らの口を用いて追試できる。


  

  

 

漢字の発音変化と「韻書」

  絶句・律詩などの伝統的な中国定型韻律詩(漢詩)は、漢字を羅列して意味内容が美しければよいというものではなく、平仄・押韻など、どこにどういう発音の漢字を用いて良いかに関してついて複雑で厳格な規則があり、その制約の中で、音の響きも意味内容も美しい詩を作らねばならない、というパズルの様なものである。(注:漢詩と韻書)

  中国では、隋代から門閥貴族による政治の専横を防ぐ為に、民間から優秀な高級官僚を登用する「科挙」という試験制度が取り入れられ、清代まで受け継がれたが、「詩作」はその科挙試験の重要な課題であった。
  そのため、科挙を受験する者は、「漢字の正しい発音」を知る必要があり、そのために作られたの発音辞典が「韻書」である。

   韻書は三国時代から作られていたというが普及せずに散逸し、隋代の601年に陸法言という人物によって編纂された『切韻』という韻書が、隋・唐代を通じて科挙を通じて中国全土に広く普及して権威となり、後代に作られる多くの韻書の土台となった。
   ただ、この『切韻』自体は現存せず、現存する最古の韻書は北宋代の1008年に編纂された切韻の増補改訂版である『廣韻』という韻書である。 
  その後、北宋代の1039年に『廣韻』を更に改訂した『集韻』が作られ、さらに元代には『古今韻会挙要』、明代には『洪武正韻』、清代には『康煕字典』(これは字書であるが、韻書の役割も持つ)などが作られるが、これらの韻書・字書は全て、唐代に権威として確立した『切韻』に於ける発音体系を「規範的発音」と認めて土台にしている。

  ただし、北宋代に成立し現存する『廣韻』や『集韻』と、後の元代・明代・清代に成立した『古今韻会挙要』『洪武正韻』『康煕字典』などを比較すると、そこに発音の差異・変化が認められる。
   漢文学者達は、その差異・変化を「時代差」と見なし、北宋代までの発音を「中古音」、南宋代から元代・明代・清代の「近古音」と呼んでいるのである。

韻書に基づく時代差説の盲点

   但し、各時代の韻書に於ける発音の差異・変化を短絡的に「時代差」と認めることは早計である。

   中央集権国家に於いては、首都の方言が「標準語」と見なされる。
   従って、隋・唐代の

   上述の様に、各時代に作られた韻書は、隋・唐代の長安や洛陽のでの発音(中原雅音)を模範・標準とする「詩作の為の人工の発音」であり、「呉音」という言葉があるように、唐代においてすら中原出身以外の地方出身者は、日常そんな発音をしていなかったはずである。
   だからこそ、科挙によって栄達を目指す地方出身者には韻書が必要だったのであり、唐代400年間の間に『切韻』やその系統の韻書が全国に広まったのである。

  また、『切韻』が隋・唐代の中原雅音を反映していると言っても、現存する最古の切韻系統の韻書は、北宋代に作られた『廣韻』であり、その北宋の首都は長安や洛陽ではなく、洛陽から西に黄河を200㎞ほど下った「開封」である。

開封・杭州
開封と杭州

   開封は、600年代初めに隋の煬帝が建設した揚子江と黄河、さらに渤海湾の天津までを繋ぐ大運河の「通済渠」と「永済渠」の結節点として繁栄した都市である。
   しかし、開封は洛陽からは200㎞、長安からは500㎞も離れており、開封の方言と、長安や洛陽の方言との間では多少なりとも差があったはずである。
   即ち、北宋代の開封で作成された『廣韻』が、唐代の中原雅音をそのまま伝えているとは限らず、

  何故なら、『切韻』が作られた唐代の首都は「長安(副都が洛陽)」であるが、最古の韻書『廣韻』やその改訂版の『集韻』が編纂された北宋代の首都は「開封」、その『廣韻』の207韻を簡略化した「平水韻」が作られた南宋代の首都は「杭州」、『古今韻会挙要』(元代)、『洪武正韻』(明代)、『康煕字典』(清代)などが編纂された時代の首都は「北京」と、激しく首都が移転しているからである。

   中央集権国家に於いては、首都の方言が「標準語」と見なされる。
   従って、現存しない『切韻』に記された発音は、実際に隋・唐代の首都・副都であった長安や洛陽で実際の発音が記されていたであろう。
   しかし、現存する『切韻』『集韻』が編まれた北宋代の首都は開封に遷っている。

それぞれの形式に於いて、「平仄」「押韻」などの何行目の何字目にはどのような発音やアクセントの漢字を用いてよいか、という複雑な規則があり、その制約の中で、意味内容も音の響きも美しい詩を作らなければならないパズルのようなものである。

また、中国の漢詩を詠むための漢字発音辞典である「韻書」が発達したのもこの唐代であり、隋代の601年に作られ、その後作られる各種韻書の手本となった『切韻』(但しこれは現存しない)、この切韻系統の韻書を集大成したとされる『廣韻』(1008年)などは、隋・唐の首都であった長安や洛陽に於ける中原雅音」あったはずで、日本の「漢音」は、当時の中原雅音を外国人が表音文字で書き取ってきた、最も客観的な発音資料であると言える。


「上古音」は、唐・宋代に『切韻』系統の韻書が作られる以前の古い時代に読まれた詩の押韻などから漢字の音価を推定したもので、一部の漢字の発音が後代とは異なっているということが解るだけで、体系的な資料はない。

「中古音」は、上述のように唐・宋代に作られた『切韻』『廣韻』などの体系的な韻書に記された当時の所謂「中原雅音」であり、中国音韻学の基礎とされている。

「近古音」とは、宋代・元代・明代・清代に作られた韻書や字書その他を資料とするものであるが、これらの時代に作られた韻書の多くも『切韻』『廣韻』などの発音を「標準」と見なし、それを改訂増補したものであり、ただ一部の韻書が切韻系統の韻書とは異なる発音を載せていることから、それを時代的変化と考える。

「現代音」は文字通り、標準中国語とされる北京語(マンダリン)に於ける実際の漢字の発音であり、現代中国語の辞書はこの発音体系を標準として載せている。

問題のは「上古音」は資料不足の故にその全貌は解らず、現代音は

「韻書」にせよ「字書」にせよ、そこに記されているのはその時代の「標準語での発音」、或いは「規範論的な発音」であって、標準語以外の方言でどのような発音がなされていたかの資料など、近世以前には皆無に等しく、資料に頼って論じている限り、その時代の「標準語」での発音しか解らないからである。

中央集権国家では、ある地方・都市に首都が置かれ、長く続くと、首都で話される方言が「標準語」となり、様々な方言を話す全国民の共通語として用いられるようになる。 従って、首都が移転すれば「標準語」もまた新しい首都の方言に置き換わる。

例えば、日本では、江戸幕府の成立によって江戸が事実上の首都となり、明治維新以後は名実共に東京が首都となって、東京方言が「標準語」とされるようになった。
一方、大和時代以来江戸開府以前まで「標準語」であった関西方言は「標準語」としての地位は失ったが、関西人はそのまま関西弁を話し続けている。
まして、他の地方の人間は、標準語が関西方言であれ東京方言であれ、その土地に住み続けている限り、日常的にはその土地の方言をずっと話し続けている。(話し言葉の標準化が日本全国で進んだのはテレビが普及した1960年代以降の事である)

長く韻書の手本とされた『切韻』系統の韻書は、長安・洛陽(中原)のの発音を「標準語」と見なして作成され、その後作られた韻書も殆どが切韻系統の発音を「規範論的な発音」としている。

しかし、唐の滅亡後は、五代王朝第二代の「後唐」が洛陽に10年ほど首都を置いたのを最後に、今日に至るまで長安・洛陽が全中国の首都として返り咲いたことはなく、北宋は黄河下流域の「開封」、南宋は江南の「臨安」(杭州)、元・明・清は北京を首都としており、当然「標準語」もそれらの地方の方言に代わる。

これらの時代も、詩作に置いては唐代中原雅音を元にした切韻系統の韻書に基づいて行われたが、これらの都市での実際の漢字の発音は中原雅音とは大きく乖離しており、これらの首都での実際の発音を元にした辞典などの資料は切韻系統の発音とは異なる発音を載せている。

故に日本の中国語学者・国語学者・漢文学者などはこの変化を「時代差」と見なし、中国漢字音は、上古音・中古音・中世音・現代音と時代的に変化したと平気で言うのであるが、彼らは辞書に載っている「標準語」の変化は首都の移転の結果起こる、ということを忘れているのである。
また、首都が遷ることによって、国民全体がコミュニケーションに用いる「標準語」「共通語」は代わるが、それに伴う大きな住民の移動がない限り、日常的に標準語以外の方言を話している人々の言葉は変化したない、ということを忘れてはならない。



 

 
朝鮮地図 

 

  

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2.「朝鮮音」の原型は山東方言音

1)漢字文明は山東→遼東→楽浪郡→朝鮮と伝播した


   さて、「日本呉音」の原型は朝鮮音(百済音)であることは明白であるが、朝鮮語と中国語は全く別の言語であり、朝鮮人(百済人)にとっても漢字は外来の文字であり、朝鮮音の原型となった中国方言音があるはずであるが、先の万葉集の発音実験でに、中国語の中で一番日本語に近く聞こえるのが山東方言音であり、その可能性が一番大きいのが山東方言音である。
   この仮説は、地理的・歴史的経緯によっても検証できる。

山東・朝鮮
山東・遼東・楽浪郡・三韓の位置関係


遼東半島は中国(漢民族)の飛び地


   現代の世界地図・中国地図を見て、古来から朝鮮と中国の国境は、長白山脈から流れ出る鴨緑江-豆満江で、漢民族と朝鮮民族は鴨緑江を挟んで隣り合わせに住んでいた、などと勘違いしている人が多くて困るが、古来鴨緑江の向こうは中国ではなく「満州」であり、そこに住んでいたのは中国語を話す漢民族ではなく、満州語を話す満州人であり、ここに漢民族が多数住み始めたのは19世紀以降のことである。

   ただ、地理的には満州の一部であるが、黄海に突き出した遼東半島だけは、紀元前の遙か昔から漢民族の支配地域であった。
   遼東半島と対岸の山東半島は最短100㎞弱であり、晴れた日には相互に観望でき、また山東-遼東には廟島列島という小さな島々が点在しており、しかも黄海は平均水深44mの浅く穏やかな海であり、原始的な筏や丸木船でも漕ぎ渡れたたため、山東半島から遼東半島への漢民族の移住は紀元前数千年、考古学時代まで遡る。
   それ以前に遼東半島に住んでいたであろう満州系やモンゴル系の先住民を追い払った漢民族は、紀元前5世紀頃の戦国時代には、半島の付け根に長城(燕の長城)を築いて、満州系やモンゴル系民族の侵入を防いでいた。
   つまり、遼東半島だけは紀元前の遙か昔から満州に於ける「中国の飛び地」だったのである。

遼東半島から朝鮮半島西北部への進出

   紀元前の遙か昔に遼東半島を占領した漢民族は、その後、その後背地の満州ではなく、鴨緑江を渡って朝鮮半島に向かい、半島西北部の大同江河畔の平壌を中心とする平安道に植民国家を作った。
   この平壌を中心とする平安道の平野、及びそこを支配していた国が「狭義の朝鮮」であり、『史記』によれば中国人の植民国家「箕氏朝鮮」の建国は紀元前1122年の事だという。

   漢民族が遼東半島からさらに奥地の満州に向かわなかったのは、長城以北は、魏志時代には高句麗(小高句麗)の土地であるが、そこは「多大山深谷、無原澤。隨山谷以為居、食澗水。無良田、雖力佃作、不足以實口腹」というボロ地であって、農耕民族の漢民族には全く魅力がなかったからであろう。

   箕氏朝鮮の史実は疑わしいが、朝鮮半島西北部「狭義の朝鮮」に古くから中国人の植民国家があったことは間違いない。
   箕氏朝鮮は紀元前195年に燕からの亡命者である衛満に簒奪されて「衛氏朝鮮」となった。衛氏朝鮮は『史記』が書かれた時代とほぼ同時代のことであり、その実在は確実である。

衛氏朝鮮から楽浪郡へ


   衛視朝鮮は、紀元前105年に漢の武帝によって滅ぼされ、その跡地の「狭義の朝鮮」は中国直轄の「楽浪郡」なり、以後、前漢・後漢・(公孫氏)・魏(曹魏)・晋(西晋)と歴代中国王朝に受け継がれ、東晋代の313年に高句麗によって滅ぼされるまで約400年間続いた。

  楽浪郡はこの間、中国にとって、朝鮮半島のみならず北のモンゴル・満州、朝鮮半島南部の三韓や日本列島など、周辺の東夷・北荻の動向に関する情報収集基地としての役割を果たしていた。

  3世紀代に日本列島のどこかに存在した「邪馬台国」の事を記した『魏志倭人伝』が書かれたのも、まだ楽浪郡が存在していた西晋代初期(290年頃)であり、倭王朝(大和朝廷)成立以前の古代日本に関する貴重な史料となっている。

  『魏志』以降、日本のことを記した中国史料は、5世紀代の「倭の五王」のことを記した『宋書倭国伝』まで途絶えるため、日本古代史では4世紀は「謎の4世紀」と呼ばれる。
  その理由は、楽浪郡が313年に高句麗によって滅ぼされ、さらに晋(西晋)王朝自体が316年に匈奴によって一旦滅ぼされ、南京に首都を遷して再建されて「東晋」として存続するものの、長安や洛陽に保管されていた東夷・北荻に関する漢代以来の史料の多くがこの際に失われ、また楽浪郡から新たな情報も入って来なくなったからである

楽浪郡中国人も山東-遼東方言を話していた

   さて、紀元前の遙か昔より、山東半島から遼東半島へ移住した漢民族は、当然山東方言を原型にした方言を話していたはずであり、その後も遼東半島と中国本土との交渉は、海路山東半島を経由して行われているのであって、事実山東-遼東の方言は似ている。
(但し、遼東半島は日露戦争以降、満州開発の拠点として中国各地からの移民が押し寄せたため、大連や瀋陽などの大都市では、現在では標準中国語である北京語が話されている)

   また、その遼東半島からこぼれて、朝鮮半島西北部に侵入した漢民族が話していたのも、当然山東(遼東)方言だったはずであり、そこが中国直轄の楽浪郡となった後も、太守などの中央から派遣されてくる幹部は別として、楽浪郡土着の民間中国人たちが話していたのも山東(遼東)方言だったはずである。

   元は同じ言語(方言)を話していた集団も、分離し移住して相互に没交渉となれば、長年の間に大きな方言差を生じてくるものであるが、山東-遼東-楽浪郡の間では、異民族に囲まれた地理的環境から、常に濃密な人の往来があり、それほど大きな方言差は生じなかったはずである。

朝鮮語訛りの山東方言音が朝鮮漢字音の原型

   楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされたが、その際に楽浪郡土着の民間中国人達はどうなったか?
   
   高句麗軍に殺された者、親戚を頼って遼東半島から大陸に逃げ戻った者もいるだろうが、逃げ遅れた者で、読み書きをはじめ、建築や工芸などに秀でた有能な者は、高句麗にそのまま雇われたり、南の三韓に逃れ、特技を生かして豪族達に雇われたはずであり、この楽浪郡から放出された多数の有能な人材が、高句麗やその後に建国された百済・新羅・加羅(倭)の文明化に大きく寄与したはずである。

   但し、楽浪郡滅亡後の半島中国人達の社会・言語環境は大きく変わる。
   植民地においては、宗主国人と現地人の居住区域は厳密に分けられ、宗主国人は現地人とは最小限の交流しかしないのが普通であり、また宗主国人は常に本国との往来が頻繁にあるため、何世代に亘って植民地に住んでいても、宗主国の言語を守り続ける。
故に、植民地時代の楽浪郡中国人達は、楽浪郡に定住して何世代経とうと中国語能力を保ち続けていたはずである。

  しかし、高句麗や百済・新羅・加羅などの「雇われ人」となった楽浪郡中国人達は、現地人との交流を避けるわけにはいかず、また、朝鮮人豪族達との通婚によって混血も進み、2~3世代後には中国語能力を失い、朝鮮語しか話せなくなっていたはずである。

   この、朝鮮語が母語化した楽浪郡中国人の子孫の「朝鮮語訛りの山東方言音」が朝鮮漢字音の起源であろう。
   これは、白村江亡命百済人の子孫の「日本語訛りの朝鮮漢字音」が「呉音」として日本に定着したのと同じパターンであり、朝鮮では同じ現象が日本よりも350年ほど早く起こったのである。

   ただ、日本では「呉音」が定着してそれほど経たぬ平安時代初期に、当時の唐代「中原雅音」を元にした「漢音」という新たな発音体系がもたらされ、定着したが、朝鮮ではそのような現象は起こらなかった。
その理由は、
① 日本では平安時代初期に平仮名・片仮名という表音文字が発明されたが、朝鮮では1443年に『訓民正音』(ハングル)が発明されるまで表音文字がなく、別の発音体系を記録する手段がなかった
② 朝鮮・中国とも王朝が交替しても、朝鮮と中国の地理的関係は不変であり、常に朝鮮と中国の交流は山東・遼東を窓口にして行われていたのであって、朝鮮人が最も頻繁に耳にする「中国語」とは山東・遼東方言でありつづけた
③ 1443年に漸く表音文字のハングルが発明された時には、中国(明朝)の首都は北京に遷っており、韻書で正格発音として尊ばれている「中原雅音」は首都の中国人ですら発音していなかった(むしろ、北京語と山東方言は、中国八大方言の中では同じ官話方言系に括られる近い方言である)

   もちろん、楽浪郡滅亡から今日まで1700年もの時間が経っており、その間に山東・遼東方言も、朝鮮語も徐々に変化しているはずで、現代の個々の漢字をみれば、両者で発音が異なるものも数多くある。
例えば、↑の山東方言特有の/ky/・/gy/音節の例で、朝鮮語で「餃」「校」「交」などの漢字を/キョ/と発音するのは、明らかに山東方言を踏襲したものと考えられる。

    一方で山東では「久」「九」などを/キュウ/と発音するのに対し、現代朝鮮語では/ク/と発音し、「久」は古事記・万葉集では日本語の「ク」の表記に盛んに用いられ、後の平仮名・片仮名の「ク」の元字ともなっていることから、朝鮮語では7~8世紀から既にこれらの字を/ク/と発音していたと見られる。

   このように、朝鮮漢字音は、個別に見れば他の方言の影響も見られるが、全体として山東方言音が基層にあることは間違いなかろう。

   即ち、日本で言う「呉音」という発音体系の原型は、白村江亡命百済人達の朝鮮音(百済音)、その朝鮮音の原型は楽浪郡中国人の発音であり、その楽浪郡中国人の発音の原型は山東(遼東)方言音なのである。
   先に紹介した発音実験で、山東・遼東では「日本」を/イーベン/、朝鮮語では/イルボン/と発音すること、『万葉集』の発音では、中国語諸方言の中では山東方言が最も日本語に近く聞こえることなどが、このことを物語っている。



3.『日本書紀α群』記述者は山東方言話者?

森博達の 『日本書紀α群』中国人記述説

  中国語学者の森博達氏による「日本書紀区分論」、即ち漢文体で書かれた『日本書紀』30巻を漢文の正確さという観点で分類すると、正格漢文体で書かれたα群と、漢文としての誤用・奇用の多いβ群に分けることができ、正格漢文のα群を書いたのは660年の百済滅亡の際に、倭に救援を求める百済遺臣が手みやげとして献上した「唐人俘虜」の中にいた、薩弘恪・続守言らの中国人であった、という説は知る人も多いであろう。

  森博達による『日本書紀』の区分
    α群:14-21、24-27巻
    β群:1-13、22-23、28-29巻
      (森は、第30巻はどちらに属するか不明としている)

  また、森氏は『日本書紀』に収録されている歌謡や訓注の、借音仮名に於ける日本語表記を分析し、α群の借音仮名は中国原音(西北音≒唐代長安音≒中原が音)に基づくのに対し、β群は「倭音」(日本式発音)で書かれているとしている。

   森氏の「日本書紀区分論」「日本書紀α群中国人記述説」は学界では高く評価され、現在では半ば定説化しており、森氏とは異なる筆者独自の方法を用いた分析に於いても、『日本書紀α群』を書いたのは中国人であったことは確認できる。

森説の2つの問題点


  但し、筆者は森説を全面的に支持するわけではなく、「日本書紀α群以外の借音仮名は倭音」、「日本書紀α群の借音仮名は唐代西北音」という2つの見解には肯首できない。

①『日本書紀α群』以外の献借音仮名は「倭音」ではなく「朝鮮音」(百済音)である


   森氏は『日本書紀α群』は中国人が書き、β群や『古事記』『万葉集』その他の上代文献は日本人が書いたと短絡的に決めつけているが、そんな証拠は歴史学的にも言語学的にもないのである。

  そして、本稿で述べている通り、『日本書紀α群』以外の借音仮名用字者は、663年の「白村江の戦い」の後に日本に大量亡命してきた百済人、及び日朝バイリンガル(朝鮮語も母語として話せる)の二世世代である。
  従って『日本書紀α群』以外の借音仮名は倭音ではなく「朝鮮音」で書かれているのである。

   このことは、本稿で示している地理的・歴史的事実や『万葉集』の発音実験などに関係なく、『記紀万葉』から発見された「上代特殊仮名遣い」の「オ段甲乙音書き分け法則」と「現代日本人(特に関西方言話者)の/O/母音の条件異音(conditional allophone)発現法則が完全に一致している、という事実から証明できる。
   詳しくは拙著『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』、特に第4~6章を参照されたい。
  特に第六章で行っている発音実験は、日本人(日本語ネイティブスピーカー)なら自らの口を用いて実験し検証できるのであり、これまで数百人の日本人に同じ実験をさせてみたが、皆同じ結果となり、異議を唱えた者は一人もいない。
  (拙著は刊行直後に森博達氏にも献呈したが、この肝心の部分においてはメールで「生理音声学に疎い私には難解でした」で済ませている。要するにマトモに読んでいないのである)

  筆者の「朝鮮音」説に異議を唱えたい向きは、拙著第六章を正確に理解した上で、そこで行っている実験を、別の実験によって否定する以外にはなく、ここでは論じない。

②『日本書紀α群』を書いた「中国人」が標準語話者であったという証拠はない

  森氏は、『日本書紀α群』の借音仮名は中国原音で書かれており、その「中国原音」とは「西北音」、即ち唐代の「標準語」である長安や洛陽の「中原雅音」であったとしている。

  しかし、前掲の中国各地方言音での「日本」の発音1つを聴いてみれば解るように、義務教育が普及し、テレビ・ラジオ・カセット・CDなどの音声を直接聞くことが出来るメディアが普及している現代ですら、中国では同一漢字に何十もの発音が併存しているのである。
  テレビ等が普及した今日であれば、どんな地方の人間も幼児期からテレビで「標準語」を聴いて育つので、地方出身でも標準語の発音ができるということはあるが、そんなものが全く無かった唐代において、言語形成期を長安や洛陽で過ごした者でない限り、中原雅音など発音出来なかったはずである。 

  そして、森氏は『日本書紀α群』を書いた「中国人」は、660年の百済滅亡の際に、倭に救援を求める百済遺臣達が手みやげとして献上した「唐人俘虜」の中にいた薩弘恪・続守言らだと措定しているが、一方において彼らが長安や洛陽出身であるという証拠は全くないのである。

    口頭言語と異なり、どんな言語でも文字言語は人工言語、人為的な「教育」を施し、「学習」によって習得する以外になく、逆に言えばちゃんとした教育を受けた者なら、日頃はどんな酷い訛りのある方言を話していても、文章は標準語で書ける。
   関西出身の堺屋太一氏や竹村健一氏は(そして、恐らく兵庫県出身の森博達氏自身も)日頃関西方言を話しているが、彼らの書いた論文や論評を読む限り、彼らが関西方言話者であることなど読みとれないであろう。

   それと同じで、漢文の正確さや、日本語の音写に用いられる漢字の種類が『日本書紀β群』や『古事記』『万葉集』などと異なることから、『日本書紀α群』の著者が中国人であることは確かめられても、その著者が当時の「標準中国語」を話していたことの証明にはならず、『日本書紀α群』の借音仮名が標準語の「西北音」であったことの証明にはならないのである。
  
  森氏が『日本書紀α群』に用いられている中国原音が「西北音」(唐代長安音)だとする根拠は、要するに当時の中国での漢字の発音を知る資料は、隋・唐代に作られ、長安や洛陽の方言に於ける発音を雛形にした『切韻』系統の韻書(漢字の発音辞典)以外に無く、山東を含め、他の地方での発音など全く解らないから、というだけのことである。
  (『切韻』等の韻書についてはWikipedia愛知県立大学の「音韻学入門」というページに詳しい。但し、これらのページも、漢字音の変遷を方言差よりも時代差に求める傾向が強く、筆者とは立場が異なる)

『日本書紀α群』述作者は山東方言話者

  本稿前半の朝鮮語及び中国各地方言音による『万葉集』の発音実験から、日本呉音の原型は朝鮮音(百済音)、朝鮮音の原型は山東音ということには納得頂けたと思う。

   ところで、森氏が『日本書紀α群』の述作者と措定している薩弘恪・続守言らは、660年に唐・新羅同盟軍が百済の首都を陥落させた際に、百済軍に捕らわれた「俘虜」であるが、 上の中国と朝鮮半島の地理的関係から見れば解るように、中国から朝鮮半島、特に南部の百済に攻め込む場合は、山東半島から海路攻め込むのが最も合理的なのであり、事実この660年の百済討滅戦の際に唐軍は山東半島から攻め込んでいる。

  もちろん総司令官など高位級の軍人は首都から派遣されてきただろうが、18万と言われる兵卒の大半は朝鮮半島に近い山東及びその周辺から徴発されたはずである。(当時遼東半島は高句麗領であって、遼東から兵を徴発することは無理だった)

  とすると、前線に出て捕虜になってしまう薩弘恪・続守言らが首都から派遣されてきた高位級の人物であったとは考え難く、むしろ山東人であった可能性の方が大きいであろう。  

山東方言と朝鮮語による『日本書紀α群』『古事記』同一歌の発音

  筆者説では、『万葉集』を書いたのは朝鮮語話者(百済人)であるが、朝鮮語話者が書いたものを山東方言話者が読んでもかなり日本語に近く聞こえるということは、『日本書紀α群』を書いた薩弘恪・続守言らが山東人であるならば、『日本書紀α群』に収録されている日本語の歌を山東方言話者に読ませてみれば、もっと日本語に近く聞こえるはずである。

  『古事記』『日本書紀』は歌謡集ではないが、『古事記』には112首、『日本書紀』には128首の借音仮名で書かれた歌謡が収録されており、「記紀歌謡」と呼ばれるが、うち40~50首が重複している。
  但し、『日本書紀』に収録されている128首の歌謡の大半はβ群にあり、中国人記述とされるα群にあるのは10数首に過ぎず、うち『古事記』と重複しているのは4首のみである。 そこで、この4首を山東方言音、朝鮮音、及び日本呉音で発音して比較する実験を行ってみた。
    これらから推定される元となる日本語の発音と歌の意味は写真の下の通りである。

日本書紀 古事記
山東方言 日本書紀 山東方言 古事記
日本書紀 古事記
朝鮮語 日本書紀 朝鮮語 古事記

 
日本書紀 古事記
日本呉音 日本書紀 日本呉音 古事記

蜻蛉の功績 
     「日本書紀」14巻雄略紀 
野麼等能 鳴武羅能陀該儞 之之符須登
拕例柯挙能居登 飫裒磨陛儞麻鳴須
飫裒枳瀰簸 賊拠鳴枳舸斯題 柁磨磨枳能 阿娯羅儞陀陀伺
施都魔枳能 阿娯羅儞陀陀伺 斯斯磨都登 倭我伊麻西麼
佐謂麻都登 倭我陀陀西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳都
曾能阿武鳴 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符
儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登

(推定 原日本語発音)
やまとの をむらのたけに ししふすと 
だれかこのこと おほまへにまをす
おほきみは そこをきかして たままきの あごらにたたし
しづまきの あごらにたたし ししまつと わがいませば
さゐまつと わがたたせば たくふらに あむあかきつぎつ
そのあむを あきづはやぐひ はふむしも おほきみにまつらふ
ながかたは おかむ あきつしま やまと

(推定 日本語意味)
大和の 小武羅の岳に 獣伏すと 誰かこの事 大前に申す
大君は そこを聞かして 玉纏の 呉床に立たし
倭文纏の 呉床に立たし 獣待つと 我がいませば
さ猪待まつと 我が立たせば 手腓に 虻懸き着きつ
その虻を 蜻蛉早食ひ 這ふ虫も 大君に奉らふ
汝が形は 置かむ 蜻蛉島大和

   「古事記」
美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 
多礼曾 意富麻幣爾麻袁須
夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志麻都登 
阿具良爾伊麻志 斯漏多閇能
曾弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐都岐 
曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比
加久能碁等 那爾淤波牟登 蘇良美都 
夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布

(推定 原日本語発音)
みえしのの をむろのたけに ししふすと だれそ おほまへにまをす
やすみしし わがおほきみの ししまつと あごらにいまし 
しろたへの そでぎそなふ たこむらに あむかきつき
そのあむを あきつはやぐひ かくのごと なにおはむと
やまとのくにを あきづしまとふ 

(推定 日本語意味)
み吉野の 小牟漏の岳に 獣伏すと 誰そ 大前に申す
やすみしし 我が大君の 獣待つと 呉床にい坐し 
白妙の  袖着具ふ 手腓に 虻懸き着き その虻を 蜻蛉早食ひ
かくの如 名に負はむと そらみつ 大和の国を 蜻蛉島とふ


●葛城山の猟
   「日本書紀」14巻 雄略紀

野須瀰斯志 倭我飫裒枳瀰能 阿蘇麼斯志 宇拕枳舸斯固瀰
倭我尼碍能裒利志 阿理鳴能宇倍能 婆利我曳陀  阿西烏

(推定 原日本語発音)
やすみしし わがおほきみの あそばしし うたきかしこみ
わがにげのぼりし ありをのうへの はりがえだ   あせを

(推定 日本語意味)
やすみしし 我が大君きみの 遊ばしし うたき恐み
我が逃げ登りし 在峰の上の 榛が枝   あせを

「古事記」
夜須美志斯 和賀意富岐美能 阿蘇婆志斯 
志斯能 夜美斯志能 宇多岐加斯古美
和賀爾宜能煩理斯 阿理袁能 波理能紀能延陀

(推定 原日本語発音)
やすみしし わがおほきみの あそばしし 
ししの やみしししの うたきかしこみ
わがにげのぼりし ありをのうへの はりのきのえだ 

(推定 日本語意味)
やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 病猪の うたき恐み
我が逃げ登りし 在峰の上の 榛の木の枝


●顕宗天皇と淡海の置目
「日本書紀」15巻 顕宗紀
阿佐膩簸囉 鳴贈禰鳴須擬 謨謀逗拕甫
奴底喩羅矩慕與 於岐毎倶羅之慕
於岐毎慕與 阿甫瀰能於岐毎 阿須用利簸 
瀰野磨我倶利底 彌曳孺哿謨阿羅牟

(推定 原日本語発音)
あさぢはら をそねをすぎ ももつたふ ぬでゆらくもよ おきめくらしも
おきめもよ あふみのおきめ あすよりは
みやまかくりて みえずかもあらむ

(推定 日本語意味)
浅茅原 小确を過ぎ 百つたふ 鐸ゆらくもよ 置目くら来らしも
置目もよ 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ

「古事記」
阿左遅波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 
奴弖由良久母 淤岐米久良斯母
意岐米母夜 阿布美能淤岐米 阿須用理波 
美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟

(推定 原日本語発音)
あさぢはら をだにをすぎ ももつたふ ぬでゆらくもよ おきめくらしも
おきめもよ あふみのおきめ あすよりは
みやまかくりて みえずかもあらむ

(推定 日本語意味)
浅茅原 小谷を過ぎ 百伝ふ 鐸ゆらくもよ 置目来らしも
置目もよ 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ


●武烈天皇と鮪臣の歌掛け

「日本書紀 16巻武烈紀」
之裒世能 儺鳴理鳴 弥黎麼 阿蘇寐倶屢
思寐我簸多泥儞 都摩陀氐理弥喩

(推定 原日本語発音)
しほせの なおりをみれば あそびくる しびがはたでに つまたてりみゆ

(推定 日本語意味)
潮瀬の 波折りを見れば あそびくる しびがはたでに 妻立てりみゆ

「古事記」
斯本勢能 那袁理袁美礼婆 阿蘇毘久流 
志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由

(推定 原日本語発音)
しほせの なおりをみれば あそびくる しびがはたでに つまたてりみゆ

(推定 日本語意味)
潮瀬の 波折りを見れば あそびくる しびがはたでに 妻立てりみゆ

「古韓音」は楽浪郡中国語の特殊な発音?

  さて、『日本書紀α群』を除く『記紀万葉』等の日本語音写には、中国音韻学に照らして「呉音」とも「漢音」とも呼べない特殊な発音をしたと思われる漢字が幾つか存在し、それらは「古韓音」と呼ばれている。

  例えば「其」(漢音では/キ/)を/ゴ乙/に、 「己」(漢音では/キ/)を/コ乙/に、「里」(漢音では/リ/)を/ロ乙/、「宜」(漢音では/ギ/)を/ガ/に、「移」(漢音では/イ/)を/ヤ/にあてるといったものである。

  日本以外でのこれら「古韓音」の用例は、主として異民族言語の人名・地名などの音写だそうである。

  従来、「古韓音」は、切韻系統の韻書が成立する遙か以前の、紀元前の周代、漢代の古い発音「上古音」の名残り、というのが一般的な見解であったが、筆者は「古韓音」は山東方言音を原型としつつも、楽浪郡で独自の発達を遂げた「楽浪方言音」ではないかと考える。

  というのは、中国漢字には存在しないのに、日本の上代文献には/テ/の音写に盛んに用いられる「弖」という特殊な文字の存在である。
  この「弖」という字は、「氐」を左右反転した鏡像文字だとおもわれるが、上の『日本書紀α群』『古事記』同一歌でも、『古事記』では盛んに用いられているのに、『日本書紀α群』では全く用いられない。

  日本に於けるこの「弖」の使用は古く、既に470年前後に作成されたと思われる稲荷山古墳鉄剣銘にも用いられており、長く「和製漢字」だと思われていたが、実はそれよりもっと早く、414年建立とされる「高句麗好太王碑文」(広開土王碑文)にも用いられており、和製漢字ではない。
 

稲荷山古墳鉄剣銘 高句麗好太王碑文
稲荷山古墳鉄剣銘 高句麗好太王碑文
 (なお、好太王碑文は日本軍によって改竄されたもの、という説が韓国人学者によって長く唱えられていたが、2006年に中国で日本軍による拓本よりも古い時代の拓本が発見され、両者が完全に一致していることから、改竄説は完全に否定された)

   ところで、この高句麗好太王碑は中国吉林省集安にあり、427年に朝鮮半島内の平壌に遷都する以前に建てられたものであって、この「弖」の字は朝鮮語ではなく、「本来の高句麗語」(満州語の一方言)を音写したもののはずである。 

   上述のように、313年の楽浪郡滅亡によって放出された中国文化人達が高句麗や百済に雇われることによって、高句麗や百済の文明水準は一気に上がったのであり、好太王碑文を書いたのも楽浪郡中国人の子孫と思われるが、この「弖」という文字が満州語・日本語という全く異なる言語の音写に用いられているということは、中国本土にないこの文字を作ったのは楽浪郡中国人であると思われる。

  そして、上述のように楽浪郡は歴代中国王朝にとって、モンゴル・満州・朝鮮・三韓・倭(日本)などの東夷・北荻の動向に関する情報収集基地の役割を果たしていたのであり、楽浪郡中国人は音韻体系の異なる異民族の地名・人名などを記述するために「弖」のような特殊な文字を作ったり、その音を音写するのに適当な漢字がないため、近い発音の文字を慣用的に異言語音写に用いていたのであろう。
  そして、それが楽浪郡滅亡によって百済音に受け継がれ、さらに日本にもたらされ、定着したのではあるまいか?

     

「漢音」について

  平安時代初期にもたらされた「漢音」という漢字の発音体系は、遣唐使に伴う入唐留学生達が、唐代の首都である長安や副都である洛陽などでの発音を平仮名や片仮名で書き取ってきたものであり、同時代に成立した『切韻』『廣韻』系統の韻書に記されている「唐代中原雅音」の発音を外国人が表音文字で記した最も客観的な資料とも言える。
  (『切韻』『廣韻』については上のWikipedia愛知県立大学の「音韻学入門」 などを参照されたい)

   ということは、拙著『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』の万葉集発音実験で、日本語の漢音での発音に最も近い発音をする方言が「唐代中原雅音」の系統を引く方言だと考えられるが、筆者が主観的に最も漢音に最も近い発音をしていると思ったのは、西安(長安)や洛陽の方言ではなく台湾閩南語であった。
   
  これらの発音実験を聴けば解るとるとおり、湾台湾閩南語では「日本」を/ジップン/、「武」を/ブ/、「義」を/ギ/、「和」を/クヮ/、「須」を/ス/、「古」を/コ/、「美」を/ビ/、「奴」を/ド/と発音しているが、これらは他の方言ではあまり見られない。
  
 「閩南語」というのは、廈門を中(アモイ)心とする福建省南部の方言であるが、この廈門という 都市は、唐代の755年からの「安録山の乱」で中原(長安や洛陽)が荒廃した際に、中原から避難してきた人々が 先住民の「閩」という異民族を追い払って建てた都市であるため、ここの方言が唐代中原方言の系統を引いていることは歴史的に説明が付く。
  そして、「台湾閩南語」の漢漢字音が「中原雅音」と似ていることは、単に筆者の主観だけではなく、中国人の研究者達も認めているようである。
  この「閩南語」にも4系統ほどの亜亜亜亜流があるそうで、台湾が「閩南語」圏であるのは、16世紀に始まった台湾への移民はこの廈門から送り出された者が多かったため、台湾最大の方言となっており、台湾の閩南語は単に「台湾語」とも言われる。

唐代の長安・洛陽の住民の多くは、五代・北宋の首都である開封などに移住し、さらに開封が満州人の金に攻め落とされて江南の杭州に遷都した南宋時代には、杭州や、さらに南で当時はまだ未開であった福建・広東などに移住した者が多いため、福建や広東には唐代中原雅音の系統を引く方言が局地的に残っているとされ、↑の「日本」の発音実験で、これを/ニップン/と発音した福州方言や客家語、そして「閩南語」もその一つである。   

   長安(西安)や洛陽は、遠く周代から中華文明の中心地(中原)で、全中国の都は長安か洛陽にあるのが正しく、漢字の発音は長安・洛陽の発音が正統とされてきたが、その長安・洛陽は安録山の乱(755年)以降治安が悪化、907年に唐が滅ぶと荒廃し、以後二度と全中国の都として返り咲くことなく今日に至っており、この唐末・五代の混乱時代に多くの住民が故郷を捨てて移住し、現在の西安や洛陽の住民は、首都が北京となった元代以降に流入してきて住み着いた者の子孫が大半であるため、その方言は北京語とあまり変わらない。


だけの実験ではなんとも言えないが、いずれにせよ福建省・広東省あたりの方言漢字音を、その都市・地方の歴史に照らしながら詳しく調べて行けば、日本の「漢音」のルーツに当たる発音体系が見つかるのではなかろうか。

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森博達氏は、

  「学問にはアマもプロもない。しかし学者にはアマとプロがいる。名実ともにプロの学者を自任するのであれば、しかるべき研鑽を積まねばならない。」『日本書紀成立の真実』(中央公論新社)P.99

と言っている。
  ならば、仮にも音声・音韻を論じるプロの学者が、音声学の基礎の基礎である「allophone(異音)」の概念一つ理解しておらず「言語生理学に疎い私には難解でした」で済まされるのだろうか?

『日本書紀』の歌謡   
大分類:60首 小分類:128首

   全30巻の『日本書紀』には、大分類で60首、小分類で128首の借音仮名で記された歌が収録されている。
   「小分類」というのは、
①一首の歌が其一、其二、其三という風に分割されている場合
   例えば、大分類51の歌は其一、其二、其三に分割されている。
②複数の人間による歌問答の様な場合
   例えば、大分類40の「[武烈天皇と鮪臣の歌掛け」

うち「α群」収録の歌謡
大分類:29首 小分類:52首

巻14 雄略紀 29、30、31、32、33、34、35(2)、36
巻15 清寧・顕宗紀 37、38、39(2)
巻16 武烈紀 40(7)、41(2)、
巻17 継体紀 42(2)、43、44
巻18 安閑・宣化紀
巻19 欽明紀 45(2)
巻20 敏達紀
巻21 用明・崇峻紀

巻24 皇極紀 49、50(2)、51(3)、52、
巻25 孝徳紀 53(2)、54
巻26 斉明紀 55(6)、56、57
巻27 天智紀 58、59、60(3)

 

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長安と洛陽

  黄河最大の支流の渭水のほとりにある長安(現在の陝西省西安市)と、黄河中流域の洛陽(河南省洛陽市)は、紀元前の周代以来、唐代(南北朝時代を除く)に至るまで中華文明の中心地として栄え、しばしば交替で首都が置かれた。
中原と呉地方
中原(長安・洛陽)と呉地方(南京・蘇州)

   両都市は直線距離で300㎞ほど離れているが、渭水・黄河を通じて船で行き来ができる。
  そのため、隋・唐は長安を首都としていたが、洛陽には離宮が設置されて副都とされ、平時でも長安の気候が悪い時期や、戦時に長安が危険になると、皇帝以下の王族・貴族・官僚達はこぞって洛陽に移り、いつでも長安に代わって首都機能を果たせるように整備されていた。

  300㎞も離れているので、常時洛陽に住んでいる庶民の方言と、長安の方言には当然違いがあったはずであるが、洛陽が一時的に首都機能を果たしている際の皇帝以下の政府首脳は皆長安から一時的に移動してきた人間であるので、隋・唐代の「中原雅音」を考える際には、両都市の方言差を考慮に入れる必要はあまり無い。


 

漢詩と韻書

  「漢詩」というと「漢字を五つとか七つ並べて作った詩的な文でしょ?」と誤解している人が多いが、そんな単純なものではない。
  「平仄(ひょうそく)を合わせる」「韻(いん)を踏む」といった言葉を聞いたことがあるかも知れないが、漢詩は中国語で発音して、意味内容だけでなく、言葉のリズム・抑揚・音の響きを楽しむ韻律詩であり、どこにどんな発音の漢字を使うべきか、使ってよいかに関して非常に複雑な規則があり、その制約の下で、如何に意味内容も音の響きも美しい詩を作るかを競うパズルのようなものである。

   例えば、下の詩は日本でもよく知られた唐代の孟浩然(689-740)の「春暁」という詩で、「五言絶句」と言う最も簡単な形式の詩であるが、この形式ですら非常に複雑な規則がある。

春眠不覚暁  ☆☆★★◎ chūn mián bù jué xiăo  春眠暁を覚えず
処処聞啼鳥  ★★☆☆◎ chù chù wén tí niăo    処処鳥啼くを聞く
夜来風雨声  ★★☆☆★ yè lái fēng yŭ shēng    夜来の風雨の声
花落知多少  ☆☆☆★◎ huà luò zhī duō shăo    花落つること
                                   知りぬ多少ぞ
        (但し、このローマ字表記は現代北京語での発音である)

   まず、全ての漢字は声調(アクセント)によって「平声」と「仄声」に二分され、これを適度に散らばらせ、メリハリを付けなければならない。
   五言絶句の場合、各行の二字目と四字目の平仄は別でなければならず(二四不同)、二行目の二字目・四字目の平仄は一行目とは逆、三行目の二字目・四字目の平仄は二行目と同じ、四行目の二字目・四字目の平仄は一行目と同じにしなければならない。

五言絶句の平仄と押韻規則     

平起式             仄起式
第一行 △☆△★★   △★△☆★ 
第二行 △★△☆◎   △☆△★◎
第三行 △★△☆★   △☆△★★      
第四行 △☆△★◎   △★△☆◎
    ☆平声 ★仄声 △平仄どちらでもよい  ◎押韻
   
   これが「平仄を合わせる」という言葉の意味だが、要するに一行目の二字目に平声漢字を使う(平起式)か、仄声漢字を使う(仄起式)かによって、全ての行の二字目・四字目の漢字の平仄は決まってしまい、平仄に関係なく好きな文字を使えるのは、各行の一字目と三字目だけである。
   さらに、二行目と四行目(できれば一行目も)の末尾(五字目)には、「押韻(おういん)」といって、同じ「韻母」(母音と終声子音)に属する漢字を用いなければならない。

   この「春暁」では、第一行二文字目に「眠(mián)」という平声漢字を用いている「平起式五言絶句」であり、上に述べた平仄の規則にちゃんと規則に従っており、一、二・四行目の五文字目に「暁(xiăo)」「鳥(niăo)」と「少(shăo)」という同じ/ăo/という韻母の漢字で押韻している。

   この平仄や押韻の規則に従って文字を選ぶことをと「撰」といい、規則を破った詩は「破格」と呼ばる。
   「杜撰(ずさん)」という言葉があるが、宋代の「杜黙」という有名な詩人が、平仄を合わせるのを面倒くさがって破格の詩をたくさん作ったことから、「杜黙の撰」→「杜撰」→「いいかげん」という意味で使われるようになった故事成語である。

   このように、何千・何万とある漢字一つ一つの意味だけでなく、それが平か仄か、どの種類の韻母に属するかを知っていなければ規則通りに漢詩は作れず、そのために漢字の発音辞典が必要になってくるわけで、そういう目的で7世紀頃から作られ始めたのが「韻書」と呼ばれる辞書である。

   たかが「詩作」と思われるかも知れないが、即興でも(韻書を見ずに)ちゃんと平仄を合わせた詩が作れる、というのが当時の中国のエリートの条件であり、「科挙」(高級官僚登用試験)の重要な課題でもあったので、エリートを目指す人々、特に地方出身の人々は韻書によって必死に当時の標準語である中原方言の漢字音を覚えたのである。



高句麗地図   



新羅版図 

 

 


 

  

  

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